、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子《きよし》が來て此幅《このふく》を見た時、正岡の繪は旨いぢやありませんかと云つたことがある。余は其時、だつてあれ丈《だけ》の單純な平凡な特色を出すのに、あの位時間と勞力を費さなければならなかつたかと思ふと、何だか正岡の頭と手が、入らざる働きを餘儀なくされた觀がある所に、隱し切れない拙《せつ》が溢《あふ》れてゐると思ふと答へた。馬鹿律氣《ばかりちぎ》なものに厭味《いやみ》も利《き》いた風もあり樣はない。其處に重厚な好所《かうしよ》があるとすれば、子規の畫は正に働きのない愚直ものゝ旨さである。けれども一線一畫の瞬間作用で、優に始末をつけられべき特長を、咄嗟《とつさ》に辨ずる手際がない爲めに、已《やむ》を得《え》ず省略の捷徑《せふけい》を棄てゝ、几帳面な塗抹主義を根氣に實行したとすれば、拙《せつ》の一字は何うしても免れ難い。
子規は人間として、又文學者として、最も「拙《せつ》」の缺乏した男であつた。永年《ながねん》彼と交際をした何《ど》の月にも、何《ど》の日にも、余は未だ曾て彼の拙《せつ》を笑ひ得るの機會を捉《とら》へ得《え》たた試《ためし》がない。又彼
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