たが、向こうのすみにたった一人離れて茶を飲んでいた男がある。三四郎がふとその横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中で水蜜桃《すいみつとう》をたくさん食った人のようである。向こうは気がつかない。茶を一口飲んでは煙草《たばこ》を一吸いすって、たいへんゆっくり構えている。きょうは白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》をやめて、背広を着ている。しかしけっしてりっぱなものじゃない。光線の圧力の野々宮君より白シャツだけがましなくらいなものである。三四郎は様子を見ているうちにたしかに水蜜桃だと物色《ぶっしょく》した。大学の講義を聞いてから以来、汽車の中でこの男の話したことがなんだか急に意義のあるように思われだしたところなので、三四郎はそばへ行って挨拶《あいさつ》をしようかと思った。けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは煙草をふかし、煙草をふかしては茶を飲んでいる。手の出しようがない。
 三四郎はじっとその横顔をながめていたが、突然コップにある葡萄酒《ぶどうしゅ》を飲み干して、表へ飛び出した。そうして図書館に帰った。
 その日は葡萄酒の景気と、一種の精神作用とで、例になくおもしろい勉強ができたので、三四郎は
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