くまが抜けている。けれども野々宮君は、少しも驚かない。
「涼しいですか」と聞いた。三四郎はまた、
「ええ」と言った。
野々宮君はしばらく池の水をながめていたが、右の手をポケットへ入れて何か捜しだした。ポケットから半分封筒がはみ出している。その上に書いてある字が女の手跡《しゅせき》らしい。野々宮君は思う物を捜しあてなかったとみえて、もとのとおりの手を出してぶらりと下げた。そうして、こう言った。
「きょうは少し装置が狂ったので晩の実験はやめだ。これから本郷《ほんごう》の方を散歩して帰ろうと思うが、君どうです、いっしょに歩きませんか」
三四郎は快く応じた。二人で坂を上がって、丘の上へ出た。野々宮君はさっき女の立っていたあたりでちょっととまって、向こうの青い木立のあいだから見える赤い建物と、崖《がけ》の高いわりに、水の落ちた池をいちめんに見渡して、
「ちょっといい景色《けしき》でしょう。あの建築《ビルジング》の角度《アングル》のところだけが少し出ている。木のあいだから。ね。いいでしょう。君気がついていますか。あの建物はなかなかうまくできていますよ。工科もよくできてるがこのほうがうまいですね
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