ウめた。どこかで人声がする。東京の火事はこれで二へん目である。三四郎は寝巻の上へ羽織を引っかけて、窓をあけた。風はだいぶ落ちている。向こうの二階屋が風の鳴る中に、まっ黒に見える。家が黒いほど、家のうしろの空は赤かった。
 三四郎は寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。その時三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。三四郎はまた暖かい蒲団《ふとん》の中にもぐり込んだ。そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた。
 夜が明ければ常の人である。制服をつけて、ノートを持って、学校へ出た。ただ三十円を懐《ふところ》にすることだけは忘れなかった。あいにく時間割のつごうが悪い。三時までぎっしり詰まっている。三時過ぎに行けば、よし子も学校から帰って来ているだろう。ことによれば里見恭助という兄も在宅《うち》かもしれない。人がいては、金を返すのが、まったくだめのような気がする。
 また与次郎が話しかけた。
「ゆうべはお談義を聞いたか」
「なにお談義というほどでもない」
「そうだろう、野々宮さんは、あれで理由《わけ》のわかった人だからな」と言ってどこかへ行ってしまった。二時間後
前へ 次へ
全364ページ中282ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング