ないうえに、きょうは家《や》捜しで少しせきこんでいる。話が一段落つくと、相の手のように、どこかないかないかと聞く。しまいには三四郎も笑い出した。
そのうち与次郎の尻《しり》が次第におちついてきて、燈火親しむべしなどという漢語さえ借用してうれしがるようになった。話題ははしなく広田先生の上に落ちた。
「君の所の先生の名はなんというのか」
「名は萇《ちょう》」と指で書いて見せて、「艸冠《くさかんむり》がよけいだ。字引にあるかしらん。妙な名をつけたものだね」と言う。
「高等学校の先生か」
「昔から今日《こんにち》に至るまで高等学校の先生。えらいものだ。十年一|日《じつ》のごとしというが、もう十二、三年になるだろう」
「子供はおるのか」
「子供どころか、まだ独身《ひとりみ》だ」
三四郎は少し驚いた。あの年まで一人でいられるものかとも疑った。
「なぜ奥さんをもらわないのだろう」
「そこが先生の先生たるところで、あれでたいへんな理論家なんだ。細君《さいくん》をもらってみないさきから、細君はいかんものと理論できまっているんだそうだ。愚だよ。だからしじゅう矛盾《むじゅん》ばかりしている。先生、東京ほどきたない所はないように言う。それで石の門を見ると恐れをなして、いかんいかんとか、りっぱすぎるとか言うだろう」
「じゃ細君も試みに持ってみたらよかろう」
「大いによしとかなんとか言うかもしれない」
「先生は東京がきたないとか、日本人が醜いとか言うが、洋行でもしたことがあるのか」
「なにするもんか。ああいう人なんだ。万事頭のほうが事実より発達しているんだからああなるんだね。その代り西洋は写真で研究している。パリの凱旋門《がいせんもん》だの、ロンドンの議事堂だの、たくさん持っている。あの写真で日本を律するんだからたまらない。きたないわけさ。それで自分の住んでる所は、いくらきたなくっても存外平気だから不思議だ」
「三等汽車へ乗っておったぞ」
「きたないきたないって不平を言やしないか」
「いやべつに不平も言わなかった」
「しかし先生は哲学者だね」
「学校で哲学でも教えているのか」
「いや学校じゃ英語だけしか受け持っていないがね、あの人間が、おのずから哲学にできあがっているからおもしろい」
「著述でもあるのか」
「何もない。時々論文を書く事はあるが、ちっとも反響がない。あれじゃだめだ。まるで世間が知らないんだからしようがない。先生、ぼくの事を丸行燈《まるあんどん》だと言ったが、夫子《ふうし》自身は偉大な暗闇だ」
「どうかして、世の中へ出たらよさそうなものだな」
「出たらよさそうなものだって、――先生、自分じゃなんにもやらない人だからね。第一ぼくがいなけりゃ三度の飯さえ食えない人なんだ」
三四郎はまさかといわぬばかりに笑い出した。
「嘘《うそ》じゃない。気の毒なほどなんにもやらないんでね。なんでも、ぼくが下女に命じて、先生の気にいるように始末をつけるんだが――そんな瑣末《さまつ》な事はとにかく、これから大いに活動して、先生を一つ大学教授にしてやろうと思う」
与次郎はまじめである。三四郎はその大言《たいげん》に驚いた。驚いてもかまわない。驚いたままに進行して、しまいに、
「引っ越しをする時はぜひ手伝いに来てくれ」と頼んだ。まるで約束のできた家がとうからあるごとき口吻《こうふん》である。
与次郎の帰ったのはかれこれ十時近くである。一人ですわっていると、どことなく肌寒《はださむ》の感じがする。ふと気がついたら、机の前の窓がまだたてずにあった。障子をあけると月夜だ。目に触れるたびに不愉快な檜《ひのき》に、青い光りがさして、黒い影の縁が少し煙って見える。檜に秋が来たのは珍しいと思いながら、雨戸をたてた。
三四郎はすぐ床《とこ》へはいった。三四郎は勉強家というよりむしろ※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊家《ていかいか》なので、わりあい書物を読まない。その代りある掬《きく》すべき情景にあうと、何べんもこれを頭の中で新たにして喜んでいる。そのほうが命に奥行《おくゆき》があるような気がする。きょうも、いつもなら、神秘的講義の最中に、ぱっと電燈がつくところなどを繰り返してうれしがるはずだが、母の手紙があるので、まず、それから片づけ始めた。
手紙には新蔵《しんぞう》が蜂蜜《はちみつ》をくれたから、焼酎《しょうちゅう》を混ぜて、毎晩杯に一杯ずつ飲んでいるとある。新蔵は家の小作人で、毎年冬になると年貢米《ねんぐまい》を二十俵ずつ持ってくる。いたって正直者だが、癇癪《かんしゃく》が強いので、時々女房を薪《まき》でなぐることがある。――三四郎は床の中で新蔵が蜂を飼い出した昔の事まで思い浮かべた。それは五年ほどまえである。裏の椎《しい》の木に蜜蜂が二、三百匹ぶら
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