ならしをした上に、青ペンキ塗りの西洋館を建てている。広田先生は寺とペンキ塗りを等分に見ていた。
「時代錯誤《アナクロニズム》だ。日本の物質界も精神界もこのとおりだ。君、九段の燈明台を知っているだろう」とまた燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図会《えどめいしょずえ》に出ている」
「先生冗談言っちゃいけません。なんぼ九段の燈明台が古いたって、江戸名所図会に出ちゃたいへんだ」
 広田先生は笑い出した。じつは東京名所という錦絵《にしきえ》の間違いだということがわかった。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残っているそばに、偕行社《かいこうしゃ》という新式の煉瓦《れんが》作りができた。二つ並べて見るとじつにばかげている。けれどもだれも気がつかない、平気でいる。これが日本の社会を代表しているんだと言う。
 与次郎も三四郎もなるほどと言ったまま、お寺の前を通り越して、五、六町来ると、大きな黒い門がある。与次郎が、ここを抜けて道灌山《どうかんやま》へ出ようと言い出した。抜けてもいいのかと念を押すと、なにこれは佐竹《さたけ》の下屋敷《しもやしき》で、だれでも通れるんだからかまわないと主張するので、二人ともその気になって門をくぐって、藪《やぶ》の下を通って古い池のそばまで来ると、番人が出てきて、たいへん三人をしかりつけた。その時与次郎はへいへいと言って番人にあやまった。
 それから谷中《やなか》へ出て、根津《ねづ》を回って、夕方に本郷の下宿へ帰った。三四郎は近来にない気楽な半日を暮らしたように感じた。
 翌日学校へ出てみると与次郎がいない。昼から来るかと思ったが来ない。図書館へもはいったがやっぱり見当らなかった。五時から六時まで純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記するには暗すぎる。電燈がつくには早すぎる。細長い窓の外に見える大きな欅《けやき》の枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、部屋《へや》の中は講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりしている。したがって暗闇《くらやみ》で饅頭《まんじゅう》を食うように、なんとなく神秘的である。三四郎は講義がわからないところが妙だと思った。頬杖《ほおづえ》を突いて聞いていると、神経がにぶくなって、気が遠くなる。これでこそ講義の価値があるような心持ちがする。ところへ電燈がぱっとついて、万事がやや明瞭《めいりょう》になった。すると急に下宿へ帰って飯が食いたくなった。先生もみんなの心を察して、いいかげんに講義を切り上げてくれた。三四郎は早足で追分《おいわけ》まで帰ってくる。
 着物を脱ぎ換えて膳《ぜん》に向かうと、膳の上に、茶碗蒸《ちゃわんむし》といっしょに手紙が一本載せてある。その上封《うわふう》を見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟った。すまんことだがこの半月あまり母の事はまるで忘れていた。きのうからきょうへかけては時代錯誤《アナクロニズム》だの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影もいっこう頭の中へ出てこなかった。三四郎はそれで満足である。母の手紙はあとでゆっくり見ることとして、とりあえず食事を済まして、煙草を吹かした。その煙を見るとさっきの講義を思い出す。
 そこへ与次郎がふらりと現われた。どうして学校を休んだかと聞くと、貸家捜しで学校どころじゃないそうである。
「そんなに急いで越すのか」と三四郎が聞くと、
「急ぐって先月中に越すはずのところをあさっての天長節まで待たしたんだから、どうしたってあしたじゅうに捜さなければならない。どこか心当りはないか」と言う。
 こんなに忙しがるくせに、きのうは散歩だか、貸家捜しだかわからないようにぶらぶらつぶしていた。三四郎にはほとんど合点《がてん》がいかない。与次郎はこれを解釈して、それは先生がいっしょだからさと言った。「元来先生が家を捜すなんて間違っている。けっして捜したことのない男なんだが、きのうはどうかしていたに違いない。おかげで佐竹の邸《やしき》でひどい目にしかられていい面《つら》の皮だ。――君どこかないか」と急に催促する。与次郎が来たのはまったくそれが目的らしい。よくよく原因を聞いてみると、今の持ち主が高利貸で、家賃をむやみに上げるのが、業腹《ごうはら》だというので、与次郎がこっちからたちのきを宣告したのだそうだ。それでは与次郎に責任があるわけだ。
「きょうは大久保まで行ってみたが、やっぱりない。――大久保といえば、ついでに宗八さんの所に寄って、よし子さんに会ってきた。かわいそうにまだ色光沢《いろつや》が悪い。――辣薑性《らっきょうせい》の美人――おっかさんが君によろしく言ってくれってことだ。しかしその後はあの辺も穏やかなようだ。轢死《れきし》もあれぎりないそうだ」
 与次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。平生から締まりの
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