下がっていたのを見つけてすぐ籾漏斗《もみじょうご》に酒を吹きかけて、ことごとく生捕《いけどり》にした。それからこれを箱へ入れて、出入《ではい》りのできるような穴をあけて、日当りのいい石の上に据えてやった。すると蜂がだんだんふえてくる。箱が一つでは足りなくなる。二つにする。また足りなくなる。三つにする。というふうにふやしていった結果、今ではなんでも六箱か七箱ある。そのうちの一箱を年に一度ずつ石からおろして蜂のために蜜を切り取るといっていた。毎年《まいとし》夏休みに帰るたびに蜜をあげましょうと言わないことはないが、ついに持ってきたためしがなかった。が、今年《ことし》は物覚えが急によくなって、年来の約束を履行したものであろう。
平太郎《へいたろう》がおやじの石塔《せきとう》を建てたから見にきてくれろと頼みにきたとある。行ってみると、木も草もはえていない庭の赤土のまん中に、御影石《みかげいし》でできていたそうである。平太郎はその御影石が自慢なのだと書いてある。山から切り出すのに幾日《いくか》とかかかって、それから石屋に頼んだら十円取られた。百姓や何かにはわからないが、あなたのとこの若旦那《わかだんな》は大学校へはいっているくらいだから、石の善悪《よしあし》はきっとわかる。今度手紙のついでに聞いてみてくれ、そうして十円もかけておやじのためにこしらえてやった石塔をほめてもらってくれと言うんだそうだ。――三四郎はひとりでくすくす笑い出した。千駄木の石門よりよほど激しい。
大学の制服を着た写真をよこせとある。三四郎はいつか撮《と》ってやろうと思いながら、次へ移ると、案のごとく三輪田のお光さんが出てきた。――このあいだお光さんのおっかさんが来て、三四郎さんも近々《きんきん》大学を卒業なさることだが、卒業したら家《うち》の娘をもらってくれまいかという相談であった。お光さんは器量もよし気質《きだて》も優しいし、家に田地《でんち》もだいぶあるし、その上家と家との今までの関係もあることだから、そうしたら双方ともつごうがよいだろうと書いて、そのあとへ但し書がつけてある。――お光さんもうれしがるだろう。――東京の者は気心《きごころ》が知れないから私はいやじゃ。
三四郎は手紙を巻き返して、封に入れて、枕元《まくらもと》へ置いたまま目を眠った。鼠《ねずみ》が急に天井《てんじょう》であばれだしたが、やがて静まった。
三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の香《か》がする。すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。もっとも帰るに世話はいらない。もどろうとすれば、すぐにもどれる。ただいざとならない以上はもどる気がしない。いわば立退場《たちのきば》のようなものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえここに葬ったかと思うと、急にもったいなくなる。そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》して旧歓をあたためる。
第二の世界のうちには、苔《こけ》のはえた煉瓦造りがある。片すみから片すみを見渡すと、向こうの人の顔がよくわからないほどに広い閲覧室がある。梯子《はしご》をかけなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手ずれ、指の垢《あか》で、黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵《ちり》がある。この塵は二、三十年かかってようやく積もった尊い塵である。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵である。
第二の世界に動く人の影を見ると、たいてい不精《ぶしょう》な髭《ひげ》をはやしている。ある者は空を見て歩いている。ある者は俯向《うつむ》いて歩いている。服装《なり》は必ずきたない。生計《くらし》はきっと貧乏である。そうして晏如《あんじょ》としている。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸してはばからない。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅《かたく》をのがれるから幸いである。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。三四郎はこの内の空気をほぼ解しえた所にいる。出れば出られる。しかしせっかく解《げ》しかけた趣味を思いきって捨てるのも残念だ。
第三の世界はさんとして春のごとくうごいている。電燈がある。銀匙《ぎんさじ》がある。歓声がある。笑語がある。泡立《あわだ》つシャンパンの杯がある。そうしてすべての上の冠として美しい女性《にょしょう》がある。三四郎はその女性の一人《ひとり》に口をきいた。一人を二へん見た。この世界は三四郎にとって最も深厚な世界である。この世界は鼻の先にある。ただ近づき難い。近づき難い点において、天外の稲妻《いなずま》と一般であ
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