ておいでだったそうですが、何か御用ですか」と聞いた。すると野々宮君は、少し気の毒そうな顔をして、
「なにじつはなんでもないですよ」と言った。三四郎はただ「はあ」と言った。
「それでわざわざ来てくれたんですか」
「なに、そういうわけでもありません」
「じつはお国のおっかさんがね、せがれがいろいろお世話になるからと言って、結構なものを送ってくださったから、ちょっとあなたにもお礼を言おうと思って……」
「はあ、そうですか。何か送ってきましたか」
「ええ赤い魚《さかな》の粕漬《かすづけ》なんですがね」
「じゃひめいち[#「ひめいち」に傍点]でしょう」
三四郎はつまらんものを送ったものだと思った。しかし野々宮君はかのひめいち[#「ひめいち」に傍点]についていろいろな事を質問した。三四郎は特に食う時の心得を説明した。粕ごと焼いて、いざ皿《さら》へうつすという時に、粕を取らないと味が抜けると言って教えてやった。
二人がひめいち[#「ひめいち」に傍点]について問答をしているうちに、日が暮れた。三四郎はもう帰ろうと思って挨拶《あいさつ》をしかけるところへ、どこからか電報が来た。野々宮君は封を切って、電報を読んだが、口のうちで、「困ったな」と言った。
三四郎はすましているわけにもゆかず、といってむやみに立ち入った事を聞く気にもならなかったので、ただ、
「何かできましたか」と棒のように聞いた。すると野々宮君は、
「なにたいしたことでもないのです」と言って、手に持った電報を、三四郎に見せてくれた。すぐ来てくれとある。
「どこかへおいでになるのですか」
「ええ、妹がこのあいだから病気をして、大学の病院にはいっているんですが、そいつがすぐ来てくれと言うんです」といっこう騒ぐ気色《けしき》もない。三四郎のほうはかえって驚いた。野々宮君の妹と、妹の病気と、大学の病院をいっしょにまとめて、それに池の周囲で会った女を加えて、それを一どきにかき回して、驚いている。
「じゃ、よほどお悪いんですな」
「なにそうじゃないんでしょう。じつは母が看病に行ってるんですが、――もし病気のためなら、電車へ乗って駆けて来たほうが早いわけですからね。――なに妹のいたずらでしょう。ばかだから、よくこんなまねをします。ここへ越してからまだ一ぺんも行かないものだから、きょうの日曜には来ると思って待ってでもいたのでしょう、
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