り出た。
 野々宮の家はすこぶる遠い。四、五日前|大久保《おおくぼ》へ越した。しかし電車を利用すれば、すぐに行かれる。なんでも停車場《ステーション》の近辺と聞いているから、捜すに不便はない。実をいうと三四郎はかの平野家行き以来とんだ失敗をしている。神田《かんだ》の高等商業学校へ行くつもりで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段《くだん》まで来て、ついでに飯田橋《いいだばし》まで持ってゆかれて、そこでようやく外濠線《そとぼりせん》へ乗り換えて、御茶《おちゃ》の水《みず》から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸《かまくらがし》を数寄屋橋《すきやばし》の方へ向いて急いで行ったことがある。それより以来電車はとかくぶっそうな感じがしてならないのだが、甲武線《こうぶせん》は一筋《ひとすじ》だと、かねて聞いているから安心して乗った。
 大久保の停車場を降りて、仲百人《なかひゃくにん》の通りを戸山《とやま》学校の方へ行かずに、踏切からすぐ横へ折れると、ほとんど三尺ばかりの細い道になる。それを爪先《つまさき》上がりにだらだらと上がると、まばらな孟宗藪《もうそうやぶ》がある。その藪の手前と先に一軒ずつ人が住んでいる。野々宮の家はその手前の分であった。小さな門が道の向きにまるで関係のないような位置に筋《すじ》かいに立っていた。はいると、家がまた見当違いの所にあった。門も入口もまったくあとからつけたものらしい。
 台所のわきにりっぱな生垣《いけがき》があって、庭の方にはかえって仕切りもなんにもない。ただ大きな萩《はぎ》が人の背より高く延びて、座敷の椽側《えんがわ》を少し隠しているばかりである。野々宮君はこの椽側に椅子《いす》を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雑誌を読んでいた。三四郎のはいって来たのを見て、
「こっちへ」と言った。まるで理科大学の穴倉の中と同じ挨拶である。庭からはいるべきのか、玄関から回るべきのか、三四郎は少しく躊躇《ちゅうちょ》していた。するとまた
「こっちへ」と催促するので、思い切って庭から上がることにした。座敷はすなわち書斎で、広さは八畳で、わりあいに西洋の書物がたくさんある。野々宮君は椅子を離れてすわった。三四郎は閑静な所だとか、わりあいに御茶の水まで早く出られるとか、望遠鏡の試験はどうなりましたとか、――締まりのない当座の話をやったあと、
「きのう私を捜し
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