ミ会は激しく動きつつある。社会の産物たる文芸もまた動きつつある。動く勢いに乗じて、我々の理想どおりに文芸を導くためには、零細なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。今夕のビールとコーヒーは、かかる隠れたる目的を、一歩前に進めた点において、普通のビールとコーヒーよりも百倍以上の価ある尊きビールとコーヒーである。
 演説の意味はざっとこんなものである。演説が済んだ時、席にあった学生はことごとく喝采《かっさい》した。三四郎はもっとも熱心なる喝采者の一人であった。すると与次郎が突然立った。
「ダーターファブラ、シェクスピヤの使った字数《じかず》が何万字だの、イブセンの白髪《しらが》の数が何千本だのと言ってたってしかたがない。もっともそんなばかげた講義を聞いたってとらわれる気づかいはないから大丈夫だが、大学に気の毒でいけない。どうしても新時代の青年を満足させるような人間を引っ張って来なくっちゃ。西洋人じゃだめだ。第一幅がきかない。……」
 満堂はまたことごとく喝采した。そうしてことごとく笑った。与次郎の隣にいた者が、
「ダーターファブラのために祝盃をあげよう」と言いだした。さっき演説をした学生がすぐに賛成した。あいにくビールがみな空《から》である。よろしいと言って与次郎はすぐ台所の方へかけて行った。給仕が酒を持って出る。祝盃をあげるやいなや、
「もう一つ。今度は偉大なる暗闇のために」と言った者がある。与次郎の周囲にいた者は声を合して、アハハと笑った。与次郎は頭をかいている。
 散会の時刻が来て、若い男がみな暗い夜の中に散った時に、三四郎が与次郎に聞いた。
「ダーターファブラとはなんの事だ」
「ギリシア語だ」
 与次郎はそれよりほかに答えなかった。三四郎もそれよりほかに聞かなかった。二人は美しい空をいただいて家に帰った。
 あくる日は予想のごとく好天気である。今年は例年より気候がずっとゆるんでいる。ことさらきょうは暖かい。三四郎は朝のうち湯に行った。閑人《ひまじん》の少ない世の中だから、午前はすこぶるすいている。三四郎は板の間にかけてある三越《みつこし》呉服店の看板を見た。きれいな女がかいてある。その女の顔がどこか美禰子に似ている。よく見ると目つきが違っている。歯並がわからない。美禰子の顔でもっとも三四郎を驚かしたものは目つきと歯並である。与次郎の説に
前へ 次へ
全182ページ中93ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング