謔驍ニ、あの女は反《そ》っ歯《ぱ》の気味だから、ああしじゅう歯が出るんだそうだが、三四郎にはけっしてそうは思えない。……
三四郎は湯につかってこんな事を考えていたので、からだのほうはあまり洗わずに出た。ゆうべから急に新時代の青年という自覚が強くなったけれども、強いのは自覚だけで、からだのほうはもとのままである。休みになるとほかの者よりずっと楽にしている。きょうは昼から大学の陸上運動会を見に行く気である。
三四郎は元来あまり運動好きではない。国にいるとき兎狩《うさぎが》りを二、三度したことがある。それから高等学校の端艇《ボート》競漕《きょうそう》の時に旗振りの役を勤めたことがある。その時青と赤と間違えて振ってたいへん苦情が出た。もっとも決勝の鉄砲を打つ係りの教授が鉄砲を打ちそくなった。打つには打ったが音がしなかった。これが三四郎のあわてた原因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかった。しかしきょうは上京以来はじめての競技会だから、ぜひ行ってみるつもりである。与次郎もぜひ行ってみろと勧めた。与次郎の言うところによると競技より女のほうが見にゆく価値があるのだそうだ。女のうちには野々宮さんの妹がいるだろう。野々宮さんの妹といっしょに美禰子もいるだろう。そこへ行って、こんちわとかなんとか挨拶《あいさつ》をしてみたい。
昼過ぎになったから出かけた。会場の入口は運動場の南のすみにある。大きな日の丸とイギリスの国旗が交差してある。日の丸は合点《がてん》がいくが、イギリスの国旗はなんのためだかわからない。三四郎は日英同盟のせいかとも考えた。けれども日英同盟と大学の陸上運動会とは、どういう関係があるか、とんと見当がつかなかった。
運動場は長方形の芝生《しばふ》である。秋が深いので芝の色がだいぶさめている。競技を見る所は西側にある。後に大きな築山《つきやま》をいっぱいに控えて、前は運動場の柵《さく》で仕切られた中へ、みんなを追い込むしかけになっている。狭いわりに見物人が多いのではなはだ窮屈である。さいわい日和《ひより》がよいので寒くはない。しかし外套《がいとう》を着ている者がだいぶある。その代り傘《かさ》をさして来た女もある。
三四郎が失望したのは婦人席が別になっていて、普通の人間には近寄れないことであった。それからフロックコートや何か着た偉そうな男がたくさん集って、自
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