地に活を求むと云う兵法もあると云う話しだからこれは勢よく前進するにしくはない。墓場へ墓詣りをしに来たのだから別に不思議はあるまい。ただ躊躇《ちゅうちょ》するから怪しまれるのだ。と決心して例のステッキを取り直して、つかつかと女の方にあるき出した。すると女も俯向《うつむ》いたまま歩を移して石段の下で逃げるように余の袖《そで》の傍《そば》を擦《す》りぬける。ヘリオトロープらしい香《かお》りがぷんとする。香が高いので、小春日に照りつけられた袷羽織《あわせばおり》の背中《せなか》からしみ込んだような気がした。女が通り過ぎたあとは、やっと安心して何だか我に帰った風に落ちついたので、元来何者だろうとまた振り向いて見る。すると運悪くまた眼と眼が行き合った。こんどは余は石段の上に立ってステッキを突いている。女は化銀杏《ばけいちょう》の下で、行きかけた体《たい》を斜《なな》めに捩《ねじ》ってこっちを見上げている。銀杏は風なきになおひらひらと女の髪の上、袖《そで》の上、帯の上へ舞いさがる。時刻は一時か一時半頃である。ちょうど去年の冬浩さんが大風の中を旗を持って散兵壕から飛び出した時である。空は研《と》ぎ上げ
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