る。ところがこの女の帯は――後から見ると最も人の注意を惹《ひ》く、女の背中いっぱいに広がっている帯は決して黒っぽいものでもない。光彩陸離《こうさいりくり》たるやたらに奇麗《きれい》なものだ。若い女だ! と余は覚えず口の中で叫んだ。こうなると余は少々ばつがわるい。進むべきものか退《しりぞ》くべきものかちょっと留って考えて見た。女はそれとも知らないから、しゃがんだまま熱心に河上家代々の墓を礼拝している。どうも近寄りにくい。さればと云って逃げるほど悪事を働いた覚《おぼえ》はない。どうしようと迷っていると女はすっくら立ち上がった。後ろは隣りの寺の孟宗藪《もうそうやぶ》で寒いほど緑りの色が茂っている。その滴《した》たるばかり深い竹の前にすっくりと立った。背景が北側の日影で、黒い中に女の顔が浮き出したように白く映る。眼の大きな頬の緊《しま》った領《えり》の長い女である。右の手をぶらりと垂れて、指の先でハンケチの端《はじ》をつかんでいる。そのハンケチの雪のように白いのが、暗い竹の中に鮮《あざや》かに見える。顔とハンケチの清く染め抜かれたほかは、あっと思った瞬間に余の眼には何物も映らなかった。
 余が
前へ 次へ
全92ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング