るだけ精密に叙述して来たが、慣れぬ事とて余計な叙述をしたり、不用な感想を挿入《そうにゅう》したり、読み返して見ると自分でもおかしいと思うくらい精《くわ》しい。その代りここまで書いて来たらもういやになった。今までの筆法でこれから先を描写するとまた五六十枚もかかねばならん。追々学期試験も近づくし、それに例の遺伝説を研究しなくてはならんから、そんな筆を舞わす時日は無論ない。のみならず、元来が寂光院《じゃっこういん》事件の説明がこの篇の骨子だから、ようやくの事ここまで筆が運んで来て、もういいと安心したら、急にがっかりして書き続ける元気がなくなった。
老人と面会をした後《のち》には事件の順序として小野田と云う工学博士に逢わなければならん。これは困難な事でもない。例の同僚からの紹介を持って行ったら快よく談話をしてくれた。二三度訪問するうちに、何かの機会で博士の妹に逢わせてもらった。妹は余の推量に違《たが》わず例の寂光院であった。妹に逢った時顔でも赤らめるかと思ったら存外|淡泊《たんぱく》で毫《ごう》も平生と異《こと》なる様子のなかったのはいささか妙な感じがした。ここまではすらすら事が運んで来たが、ただ一つ困難なのは、どうして浩さんの事を言い出したものか、その方法である。無論デリケートな問題であるから滅多《めった》に聞けるものではない。と云って聞かなければ何だか物足らない。余一人から云えばすでに学問上の好奇心を満足せしめたる今日《こんにち》、これ以上立ち入ってくだらぬ詮議《せんぎ》をする必要を認めておらん。けれども御母《おっか》さんは女だけに底まで知りたいのである。日本は西洋と違って男女の交際が発達しておらんから、独身の余と未婚のこの妹と対座して話す機会はとてもない。よし有ったとしたところで、むやみに切り出せばいたずらに処女を赤面させるか、あるいは知りませぬと跳《は》ねつけられるまでの事である。と云って兄のいる前ではなおさら言いにくい。言いにくいと申すより言うを敢《あえ》てすべからざる事かも知れない。墓参り事件を博士が知っているならばだけれど、もし知らんとすれば、余は好んで人の秘事を暴露《ばくろ》する不作法を働いた事になる。こうなるといくら遺伝学を振り廻しても埓《らち》はあかん。自《みずか》ら才子だと飛び廻って得意がった余も茲《ここ》に至って大《おおい》に進退に窮した。とどのつ
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