ませず。それに人の子にはやはり遠慮勝ちで……せがれに嫁でも貰って置いたら、こんな時にはさぞ心丈夫だろうと思います。ほんに残念な事をしました」
そら娶《よめ》が出た。くるたびによめが出ない事はない。年頃の息子《むすこ》に嫁を持たせたいと云うのは親の情《じょう》としてさもあるべき事だが、死んだ子に娶を迎えて置かなかったのをも残念がるのは少々|平仄《ひょうそく》が合わない。人情はこんなものか知らん。まだ年寄になって見ないから分らないがどうも一般の常識から云うと少し間違っているようだ。それは一人で侘《わび》しく暮らすより気に入った嫁の世話になる方が誰だって頼《たよ》りが多かろう。しかし嫁の身になっても見るがいい。結婚して半年《はんとし》も立たないうちに夫《おっと》は出征する。ようやく戦争が済んだと思うと、いつの間《ま》にか戦死している。二十《はたち》を越すか越さないのに、姑《しゅうと》と二人暮しで一生を終る。こんな残酷な事があるものか。御母さんの云うところは老人の立場から云えば無理もない訴《うったえ》だが、しかし随分|我儘《わがまま》な願だ。年寄はこれだからいかぬと、内心はすこぶる不平であったが、滅多《めった》な抗議を申し込むとまた気色《きしょく》を悪《わ》るくさせる危険がある。せっかく慰めに来ていつも失策をやるのは余り器量のない話だ。まあまあだまっているに若《し》くはなしと覚悟をきめて、反《かえ》って反対の方角へと楫《かじ》をとった。余は正直に生れた男である。しかし社会に存在して怨《うら》まれずに世の中を渡ろうとすると、どうも嘘《うそ》がつきたくなる。正直と社会生活が両立するに至れば嘘は直ちにやめるつもりでいる。
「実際残念な事をしましたね。全体浩さんはなぜ嫁をもらわなかったんですか」
「いえ、あなた色々探しておりますうちに、旅順へ参るようになったもので御座んすから」
「それじゃ当人も貰うつもりでいたんでしょう」
「それは……」と云ったが、それぎり黙っている。少々様子が変だ。あるいは寂光院事件の手懸《てがか》りが潜伏していそうだ。白状して云うと、余はその時浩さんの事も、御母さんの事も考えていなかった。ただあの不思議な女の素性《すじょう》と浩さんとの関係が知りたいので頭の中はいっぱいになっている。この日における余は平生のような同情的動物ではない。全く冷静な好奇獣《こうきじ
前へ
次へ
全46ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング