だと持ち上げられる経験がたび重《かさ》なると人間は余に頭を下げるために生れたのじゃなと御意《ぎょい》遊ばすようになる。金で酒を買い、金で妾《めかけ》を買い、金で邸宅、朋友《ほうゆう》、従五位《じゅごい》まで買った連中《れんじゅう》は金さえあれば何でも出来るさと金庫を横目に睨《にら》んで高《たか》を括《くく》った鼻先を虚空《こくう》遥《はる》かに反《そ》り返《か》えす。一度の経験でも御多分《ごたぶん》には洩《も》れん。箔屋町《はくやちょう》の大火事に身代《しんだい》を潰《つぶ》した旦那は板橋の一つ半でも蒼《あお》くなるかも知れない。濃尾《のうび》の震災に瓦《かわら》の中から掘り出された生《い》き仏《ぼとけ》はドンが鳴っても念仏を唱《とな》えるだろう。正直な者が生涯《しょうがい》に一|返《ぺん》万引を働いても疑《うたがい》を掛ける知人もないし、冗談《じょうだん》を商売にする男が十年に半日|真面目《まじめ》な事件を担《かつ》ぎ込んでも誰も相手にするものはない。つまるところ吾々の観察点と云うものは従来の惰性で解決せられるのである。吾々の生活は千差万別であるから、吾々の惰性も商売により職業により、年齢により、気質により、両性によりて各《おのおの》異なるであろう。がその通り。劇を見るときにも小説を読むときにも全篇を通じた調子があって、この調子が読者、観客の心に反応するとやはり一種の惰性になる。もしこの惰性を構成する分子が猛烈であればあるほど、惰性その物も牢《ろう》として動かすべからず抜くべからざる傾向を生ずるにきまっている。マクベスは妖婆《ようば》、毒婦、兇漢《きょうかん》の行為動作を刻意《こくい》に描写した悲劇である。読んで冒頭より門番の滑稽《こっけい》に至って冥々《めいめい》の際読者の心に生ずる唯一の惰性は怖[#「怖」に傍点]と云う一字に帰着してしまう。過去がすでに怖《ふ》である、未来もまた怖なるべしとの予期は、自然と己《おの》れを放射して次に出現すべきいかなる出来事をもこの怖[#「怖」に傍点]に関連して解釈しようと試みるのは当然の事と云わねばならぬ。船に酔ったものが陸《おか》に上《あが》った後《あと》までも大地を動くものと思い、臆病に生れついた雀《すずめ》が案山子《かがし》を例の爺《じい》さんかと疑うごとく、マクベスを読む者もまた怖[#「怖」に傍点]の一字をどこまでも引張
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