縞柄《しまがら》だの品物などは余のような無風流漢には残念ながら記述出来んが、色合だけはたしかに華《はな》やかな者だ。こんな物寂《ものさ》びた境内《けいだい》に一分たりともいるべき性質のものでない。いるとすればどこからか戸迷《とまどい》をして紛《まぎ》れ込んで来たに相違ない。三越陳列場の断片を切り抜いて落柿舎《らくししゃ》の物干竿《ものほしざお》へかけたようなものだ。対照の極とはこれであろう。――女は化銀杏の下から斜めに振り返って余が詣《まい》る墓のありかを確かめて行きたいと云う風に見えたが、生憎《あいにく》余の方でも女に不審があるので石段の上から眺《なが》め返したから、思い切って本堂の方へ曲った。銀杏はひらひらと降って、黒い地を隠す。
 余は女の後姿を見送って不思議な対照だと考えた。昔《むか》し住吉の祠《やしろ》で芸者を見た事がある。その時は時雨《しぐれ》の中に立ち尽す島田姿が常よりは妍《あで》やかに余が瞳《ひとみ》を照らした。箱根の大地獄で二八余《にはちあま》りの西洋人に遇《あ》った事がある。その折は十丈も煮え騰《あが》る湯煙りの凄《すさま》じき光景が、しばらくは和《やわ》らいで安慰の念を余が頭に与えた。すべての対照は大抵この二つの結果よりほかには何も生ぜぬ者である。在来の鋭どき感じを削《けず》って鈍くするか、または新たに視界に現わるる物象を平時よりは明瞭《めいりょう》に脳裏《のうり》に印し去るか、これが普通吾人の予期する対照である。ところが今|睹《み》た対象は毫《ごう》もそんな感じを引き起さなかった。相除《そうじょ》の対照でもなければ相乗《そうじょう》の対照でもない。古い、淋《さび》しい、消極的な心の状態が減じた景色《けしき》はさらにない、と云ってこの美くしい綺羅《きら》を飾った女の容姿が、音楽会や、園遊会で逢《あ》うよりは一《ひ》と際《きわ》目立って見えたと云う訳でもない。余が寂光院《じゃっこういん》の門を潜《くぐ》って得た情緒《じょうしょ》は、浮世を歩む年齢が逆行して父母未生《ふもみしょう》以前に溯《さかのぼ》ったと思うくらい、古い、物寂《ものさ》びた、憐れの多い、捕えるほど確《しか》とした痕迹《こんせき》もなきまで、淡く消極的な情緒である。この情緒は藪《やぶ》を後《うし》ろにすっくりと立った女の上に、余の眼が注《そそ》がれた時に毫《ごう》も矛盾の感を与えな
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