る。ところがこの女の帯は――後から見ると最も人の注意を惹《ひ》く、女の背中いっぱいに広がっている帯は決して黒っぽいものでもない。光彩陸離《こうさいりくり》たるやたらに奇麗《きれい》なものだ。若い女だ! と余は覚えず口の中で叫んだ。こうなると余は少々ばつがわるい。進むべきものか退《しりぞ》くべきものかちょっと留って考えて見た。女はそれとも知らないから、しゃがんだまま熱心に河上家代々の墓を礼拝している。どうも近寄りにくい。さればと云って逃げるほど悪事を働いた覚《おぼえ》はない。どうしようと迷っていると女はすっくら立ち上がった。後ろは隣りの寺の孟宗藪《もうそうやぶ》で寒いほど緑りの色が茂っている。その滴《した》たるばかり深い竹の前にすっくりと立った。背景が北側の日影で、黒い中に女の顔が浮き出したように白く映る。眼の大きな頬の緊《しま》った領《えり》の長い女である。右の手をぶらりと垂れて、指の先でハンケチの端《はじ》をつかんでいる。そのハンケチの雪のように白いのが、暗い竹の中に鮮《あざや》かに見える。顔とハンケチの清く染め抜かれたほかは、あっと思った瞬間に余の眼には何物も映らなかった。
余がこの年《とし》になるまでに見た女の数は夥《おびただ》しいものである。往来の中、電車の上、公園の内、音楽会、劇場、縁日、随分見たと云って宜《よろ》しい。しかしこの時ほど驚ろいた事はない。この時ほど美しいと思った事はない。余は浩さんの事も忘れ、墓詣《はかまい》りに来た事も忘れ、きまりが悪《わ》るいと云う事さえ忘れて白い顔と白いハンケチばかり眺《なが》めていた。今までは人が後ろにいようとは夢にも知らなかった女も、帰ろうとして歩き出す途端に、茫然《ぼうぜん》として佇《たた》ずんでいる余の姿が眼に入《い》ったものと見えて、石段の上にちょっと立ち留まった。下から眺めた余の眼と上から見下《みおろ》す女の視線が五間を隔《へだ》てて互に行き当った時、女はすぐ下を向いた。すると飽《あ》くまで白い頬に裏から朱を溶《と》いて流したような濃い色がむらむらと煮染《にじ》み出した。見るうちにそれが顔一面に広がって耳の付根まで真赤に見えた。これは気の毒な事をした。化銀杏《ばけいちょう》の方へ逆戻りをしよう。いやそうすればかえって忍び足に後《あと》でもつけて来たように思われる。と云って茫然と見とれていてはなお失礼だ。死
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