ょう》がある。ただし化《ばけ》の字は余のつけたのではない。聞くところによるとこの界隈《かいわい》で寂光院のばけ銀杏と云えば誰も知らぬ者はないそうだ。しかし何が化《ば》けたって、こんなに高くはなりそうもない。三抱《みかかえ》もあろうと云う大木だ。例年なら今頃はとくに葉を振《ふる》って、から坊主になって、野分《のわき》のなかに唸《うな》っているのだが、今年《ことし》は全く破格な時候なので、高い枝がことごとく美しい葉をつけている。下から仰ぐと目に余る黄金《こがね》の雲が、穏《おだや》かな日光を浴びて、ところどころ鼈甲《べっこう》のように輝くからまぼしいくらい見事である。その雲の塊《かたま》りが風もないのにはらはらと落ちてくる。無論薄い葉の事だから落ちても音はしない、落ちる間もまたすこぶる長い。枝を離れて地に着くまでの間にあるいは日に向いあるいは日に背《そむ》いて色々な光を放つ。色々に変りはするものの急ぐ景色《けしき》もなく、至って豊かに、至ってしとやかに降って来る。だから見ていると落つるのではない。空中を揺曳《ようえい》して遊んでいるように思われる。閑静である。――すべてのものの動かぬのが一番閑静だと思うのは間違っている。動かない大面積の中に一点が動くから一点以外の静さが理解できる。しかもその一点が動くと云う感じを過重《かちょう》ならしめぬくらい、否《いな》その一点の動く事それ自《みずか》らが定寂《じょうじゃく》の姿を帯びて、しかも他の部分の静粛なありさまを反思《はんし》せしむるに足るほどに靡《なび》いたなら――その時が一番|閑寂《かんじゃく》の感を与える者だ。銀杏《いちょう》の葉の一陣の風なきに散る風情《ふぜい》は正にこれである。限りもない葉が朝《あした》、夕《ゆうべ》を厭《いと》わず降ってくるのだから、木の下は、黒い地の見えぬほど扇形の小さい葉で敷きつめられている。さすがの寺僧《じそう》もここまでは手が届かぬと見えて、当座は掃除の煩《はん》を避けたものか、または堆《うずた》かき落葉を興ある者と眺《なが》めて、打ち棄てて置くのか。とにかく美しい。
 しばらく化銀杏《ばけいちょう》の下に立って、上を見たり下を見たり佇《たたず》んでいたが、ようやくの事幹のもとを離れていよいよ墓地の中へ這入《はい》り込んだ。この寺は由緒《ゆいしょ》のある寺だそうでところどころに大きな蓮台《れ
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