底だと見当をつけて一心に見守る。夕立を遠くから望むように密に蔽《おお》い重なる濃き者は、烈《はげ》しき風の捲返《まきかえ》してすくい去ろうと焦《あせ》る中に依然として凝《こ》り固って動かぬ。約二分間は眼をいくら擦《こす》っても盲目《めくら》同然どうする事も出来ない。しかしこの煙りが晴れたら――もしこの煙りが散り尽したら、きっと見えるに違ない。浩さんの旗が壕の向側《むこうがわ》に日を射返して耀《かがや》き渡って見えるに違ない。否《いな》向側を登りつくしてあの高く見える※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2−4−94]《ひめがき》の上に翩々《へんぺん》と翻《ひるがえ》っているに違ない。ほかの人ならとにかく浩さんだから、そのくらいの事は必ずあるにきまっている。早く煙が晴れればいい。なぜ晴れんだろう。
占《し》めた。敵塁の右の端《はじ》の突角の所が朧気《おぼろげ》に見え出した。中央の厚く築き上げた石壁《せきへき》も見え出した。しかし人影はない。はてな、もうあすこらに旗が動いているはずだが、どうしたのだろう。それでは壁の下の土手の中頃にいるに相違ない。煙は拭《ぬぐ》うがごとく一掃《ひとはき》に上から下まで漸次《ぜんじ》に晴れ渡る。浩さんはどこにも見えない。これはいけない。田螺《たにし》のように蠢《うご》めいていたほかの連中もどこにも出現せぬ様子だ。いよいよいけない。もう出るか知らん、五秒過ぎた。まだか知らん、十秒立った。五秒は十秒と変じ、十秒は二十、三十と重なっても誰|一人《いちにん》の塹壕《ざんごう》から向うへ這《は》い上《あが》る者はない。ないはずである。塹壕に飛び込んだ者は向《むこう》へ渡すために飛び込んだのではない。死ぬために飛び込んだのである。彼らの足が壕底《ごうてい》に着くや否《いな》や穹窖《きゅうこう》より覘《ねらい》を定めて打ち出す機関砲は、杖《つえ》を引いて竹垣の側面を走らす時の音がして瞬《またた》く間《ま》に彼らを射殺した。殺されたものが這い上がれるはずがない。石を置いた沢庵《たくあん》のごとく積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横《よこた》わる者に、向《むこう》へ上がれと望むのは、望むものの無理である。横わる者だって上がりたいだろう、上りたければこそ飛び込んだのである。いくら上がりたくても、手足が利《き》かなくては上がれぬ。眼が暗《くら》んでは上がれぬ
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