》そうが、とにかくこの混乱のうちに少しなりとも人の注意を惹《ひ》くに足る働《はたらき》をするものを浩さんにしたい。したい段ではない。必ず浩さんにきまっている。どう間違ったって浩さんが碌々《ろくろく》として頭角をあらわさないなどと云う不見識な事は予期出来んのである。――それだからあの旗持は浩さんだ。
 黒い塊《かたま》りが敵塁の下まで来たから、もう塁壁を攀《よ》じ上《のぼ》るだろうと思ううち、たちまち長い蛇《へび》の頭はぽつりと二三寸切れてなくなった。これは不思議だ。丸《たま》を喰《くら》って斃《たお》れたとも見えない。狙撃《そげき》を避けるため地に寝たとも見えない。どうしたのだろう。すると頭の切れた蛇がまた二三寸ぷつりと消えてなくなった。これは妙だと眺《なが》めていると、順繰《じゅんぐり》に下から押し上《あが》る同勢が同じ所へ来るや否《いな》やたちまちなくなる。しかも砦《とりで》の壁には誰一人としてとりついたものがない。塹壕《ざんごう》だ。敵塁と我兵の間にはこの邪魔物があって、この邪魔物を越さぬ間は一人も敵に近《ちかづ》く事は出来んのである。彼らはえいえいと鉄条網を切り開いた急坂《きゅうはん》を登りつめた揚句《あげく》、この壕《ほり》の端《はた》まで来て一も二もなくこの深い溝《みぞ》の中に飛び込んだのである。担《にな》っている梯子《はしご》は壁に懸けるため、背負《しょ》っている土嚢《どのう》は壕を埋《うず》めるためと見えた。壕はどのくらい埋《うま》ったか分らないが、先の方から順々に飛び込んではなくなり、飛び込んではなくなってとうとう浩さんの番に来た。いよいよ浩さんだ。しっかりしなくてはいけない。
 高く差し上げた旗が横に靡《なび》いて寸断寸断《ずたずた》に散るかと思うほど強く風を受けた後《のち》、旗竿《はたざお》が急に傾いて折れたなと疑う途端《とたん》に浩さんの影はたちまち見えなくなった。いよいよ飛び込んだ! 折から二竜山《にりゅうざん》の方面より打ち出した大砲が五六発、大空に鳴る烈風を劈《つんざ》いて一度に山腹に中《あた》って山の根を吹き切るばかり轟《とどろ》き渡る。迸《ほとば》しる砂煙《すなけむり》は淋《さび》しき初冬《はつふゆ》の日蔭を籠《こ》めつくして、見渡す限りに有りとある物を封じ了《おわ》る。浩さんはどうなったか分らない。気が気でない。あの煙の吹いている
前へ 次へ
全46ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング