観である。少なくとも文章を作る上においての人生観である。人生観が自然とできているのだから、自己が意識せざるうちに筆はすでに着々としてその方向に進んで行く。
 彼らは何事をも写すを憚《はば》からぬ。ただ拘泥《こうでい》せざるを特色とする、人事百端、遭逢纏綿《そうほうてんめん》の限りなき波瀾《はらん》はことごとく喜怒哀楽の種で、その喜怒哀楽は必竟《ひっきょう》するに拘泥するに足らぬものであるというような筆致が彼らの人生に齎《もたら》し来《きた》る福音《ふくいん》である。彼らのかいたものには筋のないものが多い。進水式をかく。すると進水式の雑然たる光景を雑然と叙《の》べて知らぬ顔をしている。飛鳥山《あすかやま》の花見をかく、踊ったり、跳《は》ねたり、酣酔狼藉《かんすいろうぜき》の体を写して頭も尾もつけぬ。それで好いつもりである。普通の小説の読者から云えば物足らない。しまりがない。漠然《ばくぜん》として捕捉《ほそく》すべき筋が貫いておらん。しかし彼らから云うとこうである。筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないもののうちに筋を立てて見たって始まらないじゃないか。どんな複雑な趣向で、どんな纏《
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