]がある。逼《せま》っておらん。屈托気《くったくげ》が少ない。したがって読んで暢《の》び暢びした気がする。全く写生文家の態度が人事を写し行く際に全精神を奪われてしまわぬからである。
 写生文家は自己の精神の幾分を割《さ》いて人事を視《み》る。余す所は常に遊んでいる。遊んでいる所がある以上は、写すわれと、写さるる彼との間に一致する所と同時に離れている局部があると云う意味になる。全部がぴたりと一致せぬ以上は写さるる彼になり切って、彼を写す訳には行かぬ。依然として彼我《ひが》の境を有して、我の見地から彼を描かなければならぬ。ここにおいて写生文家の描写は多くの場合において客観的である。大人は小児を理解する。しかし全然小児になりすます訳には行かぬ。小児の喜怒哀楽を写す場合には勢《いきおい》客観的でなければならぬ。ここに客観的と云うは我[#「我」に白丸傍点]を写すにあらず彼[#「彼」に白丸傍点]を写すという態度を意味するのである。この気合で押して行く以上はいかに複雑に進むともいかに精緻《せいち》に赴《おもむ》くともまたいかに解剖的に説き入るとも調子は依然として同じ事である。
 余は最初より大人と小
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