うのは誤謬《ごびゅう》である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻でもない。無論同情がある。同情はあるけれども駄菓子を落した小供と共に大声を揚《あ》げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是《がんぜ》なく煩悶《はんもん》し、無体に号泣し、直角に跳躍し、いっさんに狂奔《きょうほん》する底《てい》の同情ではない。傍《はた》から見て気の毒の念に堪《た》えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。
 したがって写生文家の描く所は多く深刻なものでない。否いかに深刻な事をかいてもこの態度で押して行くから、ちょっと見ると底まで行かぬような心持ちがするのである。しかのみならずこの態度で世間人情の交渉を視るからたいていの場合には滑稽《こっけい》の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれて来る。
 人によると写生文家のかいたものを見て世を馬鹿にしていると云う。茶化していると云う。もし両親の小供に対する態度が小供を馬鹿にしている、茶化していると云い得べくんば写生文家もまたこの非難を免《まぬ》かれぬかも知れぬ。多少の道化《どう
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