児の譬喩《たとえ》を用いて写生文家の立場を説明した。しかしこれは単に彼らの態度をもっともよく云いあらわすための言語である。けっして彼らの人生観の高下を示すものではない。大人《おとな》だからえらい[#「えらい」に傍点]。えらい[#「えらい」に傍点]見方をして人事に対するのが写生文家だと云う意義に解釈されては余の本旨に背《そむ》く。えらい[#「えらい」に傍点]、えらくない[#「えらくない」に傍点]は問題外である。ただ彼らの態度がこうだと云うまでに過ぎぬ。
 この故に写生文家は自己の心的行動を叙する際にもやはり同一の筆法を用いる。彼らも喧嘩《けんか》をするだろう。煩悶《はんもん》するだろう。泣くだろう。その平生を見れば毫《ごう》も凡衆と異なるところなくふるまっているかも知れぬ。しかしひとたび筆を執《と》って喧嘩《けんか》する吾《われ》、煩悶《はんもん》する吾、泣く吾、を描く時はやはり大人が小児を視るごとき立場から筆を下す。平生の小児を、作家の大人が叙述する。写生文家の筆に依怙《えこ》の沙汰《さた》はない。紙を展《の》べて思《おもい》を構うるときは自然とそう云う気合になる。この気合が彼らの人生観である。少なくとも文章を作る上においての人生観である。人生観が自然とできているのだから、自己が意識せざるうちに筆はすでに着々としてその方向に進んで行く。
 彼らは何事をも写すを憚《はば》からぬ。ただ拘泥《こうでい》せざるを特色とする、人事百端、遭逢纏綿《そうほうてんめん》の限りなき波瀾《はらん》はことごとく喜怒哀楽の種で、その喜怒哀楽は必竟《ひっきょう》するに拘泥するに足らぬものであるというような筆致が彼らの人生に齎《もたら》し来《きた》る福音《ふくいん》である。彼らのかいたものには筋のないものが多い。進水式をかく。すると進水式の雑然たる光景を雑然と叙《の》べて知らぬ顔をしている。飛鳥山《あすかやま》の花見をかく、踊ったり、跳《は》ねたり、酣酔狼藉《かんすいろうぜき》の体を写して頭も尾もつけぬ。それで好いつもりである。普通の小説の読者から云えば物足らない。しまりがない。漠然《ばくぜん》として捕捉《ほそく》すべき筋が貫いておらん。しかし彼らから云うとこうである。筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないもののうちに筋を立てて見たって始まらないじゃないか。どんな複雑な趣向で、どんな纏《
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