け》たるうちに一点の温情を認め得ぬものは親の心を知らぬもので、また写生文家を解し得ぬものであろう。
この故《ゆえ》に写生文家は地団太《じだんだ》を踏む熱烈な調子を避ける。恁《かか》る狂的の人間を写すのを避けるのではない。写生文家自身までが写さるる狂的な人間と同一になるを避けるのである。避けるのではない。そこまで引き込まるる事がおかしくてできにくいのである。
そこで写生文家なるものは真面目《まじめ》に人世を観じておらぬかの感が起る。なるほどそうかも知れぬ。しかし一方から見れば作者自身が恋に全精神を奪われ、金に全精神を捧げ、名に全精神を注いで、そうして恋と金と、名を求めつつある人物を描くよりも比較的に真面目かも知れぬ。描き出ださるべき一人に同情して理否も、前後も弁《わきま》えぬほどの熱情をもって文をやる男よりもたしかなところがあるかも知れぬ。
吾《わ》が精神を篇中の人物に一図に打ち込んで、その人物になりすまして、恋を描き愛を描き、もしくは他の情緒を描くのは熱烈なものができるかも知れぬが、いかにも余裕がない作が現れるに相違ない。写生文家のかいたものには何となくゆとり[#「ゆとり」に傍点]がある。逼《せま》っておらん。屈托気《くったくげ》が少ない。したがって読んで暢《の》び暢びした気がする。全く写生文家の態度が人事を写し行く際に全精神を奪われてしまわぬからである。
写生文家は自己の精神の幾分を割《さ》いて人事を視《み》る。余す所は常に遊んでいる。遊んでいる所がある以上は、写すわれと、写さるる彼との間に一致する所と同時に離れている局部があると云う意味になる。全部がぴたりと一致せぬ以上は写さるる彼になり切って、彼を写す訳には行かぬ。依然として彼我《ひが》の境を有して、我の見地から彼を描かなければならぬ。ここにおいて写生文家の描写は多くの場合において客観的である。大人は小児を理解する。しかし全然小児になりすます訳には行かぬ。小児の喜怒哀楽を写す場合には勢《いきおい》客観的でなければならぬ。ここに客観的と云うは我[#「我」に白丸傍点]を写すにあらず彼[#「彼」に白丸傍点]を写すという態度を意味するのである。この気合で押して行く以上はいかに複雑に進むともいかに精緻《せいち》に赴《おもむ》くともまたいかに解剖的に説き入るとも調子は依然として同じ事である。
余は最初より大人と小
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