を動かす事ができるかと聞くものがある。動かさんでもいいのである。隣りの御嬢さんも泣き、写す文章家も泣くから、読者は泣かねばならん仕儀となる。泣かなければ失敗の作となる。しかし筆者自身がぽろぽろ涙を落して書かぬ以上は御嬢さんが、どれほど泣かれても、読者がどれほど泣かれなくても失敗にはならん。小供が駄菓子を買いに出る。途中で犬に吠《ほ》えられる。ワーと泣いて帰る。御母さんがいっしょになってワーと泣かぬ以上は、傍人《ぼうじん》が泣かんでも出来損いの御母さんとは云われぬ。御母さんは駄菓子を犬に取られるたびに泣き得るような平面に立って社会に生息していられるものではない。写生文家は思う。普通の小説家は泣かんでもの事を泣いている。世の中に泣くべき事がどれほどあると思う。隣りのお嬢さんが泣くのを拝見するのは面白い。これを記述するのも面白い。しかし同じように泣くのは御免蒙《ごめんこうむ》りたい。だからある男が泣く様を文章にかいた時にたとい読者が泣いてくれんでも失敗したとは思わない。むやみに泣かせるなどは幼稚だと思う。
 それでは人間に同情がない作物を称して写生文家の文章というように思われる。しかしそう思うのは誤謬《ごびゅう》である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻でもない。無論同情がある。同情はあるけれども駄菓子を落した小供と共に大声を揚《あ》げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是《がんぜ》なく煩悶《はんもん》し、無体に号泣し、直角に跳躍し、いっさんに狂奔《きょうほん》する底《てい》の同情ではない。傍《はた》から見て気の毒の念に堪《た》えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。
 したがって写生文家の描く所は多く深刻なものでない。否いかに深刻な事をかいてもこの態度で押して行くから、ちょっと見ると底まで行かぬような心持ちがするのである。しかのみならずこの態度で世間人情の交渉を視るからたいていの場合には滑稽《こっけい》の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれて来る。
 人によると写生文家のかいたものを見て世を馬鹿にしていると云う。茶化していると云う。もし両親の小供に対する態度が小供を馬鹿にしている、茶化していると云い得べくんば写生文家もまたこの非難を免《まぬ》かれぬかも知れぬ。多少の道化《どう
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