うと堅苦しく聞える。何だか恐ろしくて近寄りにくい。しかし煎《せん》じつめればこの態度である。隣の法律家が余を視る立脚地は、余が隣りの法律家を視る立脚地とは自《おのず》から違う。大袈裟《おおげさ》な言葉で云うと彼此《ひし》の人生観が、ある点において一様でない。と云うに過ぎん。
人事に関する文章はこの視察の表現である。したがって人事に関する文章の差違はこの視察の差違に帰着する。この視察の差違は視察の立場によって岐《わか》れてくる。するとこの立場が文章の差違を生ずる源になる。今の世に云う写生文家というものの文章はいかなる事をかいても皆共有の点を有して、他人のそれとは截然《せつぜん》と区別のできるような特色を帯びている。するとこれらの団体はその特色の共有なる点において、同じ立場に根拠地を構えていると云うてよろしい。もう一遍大袈裟な言葉を借用すると、同じ人生観を有して同じ穴から隣りの御嬢さんや、向うの御爺《おじい》さんを覗《のぞ》いているに相違ない。この穴を紹介するのが余の責任である。否この穴から浮世を覗《のぞ》けばどんなに見えるかと云う事を説明するのが余の義務である。
写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が小供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解剖すればついにここに帰着してしまう。
小供はよく泣くものである。小供の泣くたびに泣く親は気違である。親と小供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は小供が泣くたびに親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做《みな》して、擦《す》ったもんだの社会に吾《われ》自身も擦《す》ったり揉《も》んだりして、あくまでも、その社会の一員であると云う態度で筆を執《と》る。したがって隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗《のぞ》いているのとは記叙の題目そのものは同じでもその精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。
そんな不人情な立場に立って人
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング