まとま》った道行を作ろうとも畢竟《ひっきょう》は、雑然たる進水式、紛然たる御花見と異なるところはないじゃないか。喜怒哀楽が材料となるにも関《かか》わらず拘泥《こうでい》するに足らぬ以上は小説の筋、芝居の筋のようなものも、また拘泥するに足らん訳だ。筋がなければ文章にならんと云うのは窮窟《きゅうくつ》に世の中を見過ぎた話しである。――今の写生文家がここまで極端な説を有しているかいないかは余といえども保証せぬ。しかし事実上彼らはパノラマ的のものをかいて平気でいるところをもって見ると公然と無筋を標榜《ひょうぼう》せぬまでも冥々《めいめい》のうちにこう云う約束を遵奉《じゅんぽう》していると見ても差支《さしつかえ》なかろう。
 写生文家もこう極端になると全然小説家の主張と相容《あいい》れなくなる。小説において筋は第一要件である。文章に苦心するよりも背景に苦心するよりも趣向に苦心するのが小説家の当然の義務である。したがって巧妙な趣向は傑作たる上に大なる影響を与うるものと、誰も考えている。ところが写生文家はそんな事を主眼としない。のみならず極端に行くと力《つと》めて筋を抜いてまでその態度を明かにしようとする。
 かくのごとき態度は全く俳句から脱化して来たものである。泰西の潮流に漂うて、横浜へ到着した輸入品ではない。浅薄なる余の知る限りにおいては西洋の傑作として世にうたわるるもののうちにこの態度で文をやったものは見当らぬ。(もっとも写生文家のかいたものにもこれぞという傑作はまだないようである)オーステンの作物、ガスケルのクランフォードあるいは有名なるジッキンスのピクウィックまたはフィールジングのトムジョーンス及びセルヴァンテスのドン・キホテのごときは多少この態度を得たる作品である。しかし全く同じとは誰が眼にも受け取れぬ。
 しかしこの態度が述作の上において唯一《ゆいいつ》の態度と云うのではない。またこれが最上等と云うのではない。ただこんな態度もあると云う事を紹介したいと思うのである。近頃写生文の存在がようやく認められるにつけて、写生文家の態度はこうであると、云い纏《まと》めるのは一般の人の参考になる事と思うからこの篇を草したまでである。
 俳句は俳句、写生文は写生文で面白い。その態度もまた東洋的ですこぶる面白い。面白いには違ないが、二十世紀の今日こんな立場のみに籠城《ろうじょう》して
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