自転車日記
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)翻《ひるが》えして

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この際|唯一《ゆいいつ》の手段として

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]
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 西暦一千九百二年秋忘月忘日白旗を寝室の窓に翻《ひるが》えして下宿の婆さんに降を乞うや否や、婆さんは二十貫目の体躯《たいく》を三階の天辺《てっぺん》まで運び上げにかかる、運び上げるというべきを上げにかかると申すは手間のかかるを形容せんためなり、階段を上ること無慮《むりょ》四十二級、途中にて休憩する事前後二回、時を費す事三分五セコンドの後この偉大なる婆さんの得意なるべき顔面が苦し気に戸口にヌッと出現する、あたり近所は狭苦しきばかり也、この会見の栄を肩身狭くも双肩に荷《にな》える余に向って婆さんは媾和《こうわ》条件の第一款として命令的に左のごとく申し渡した、
[#ここから2字下げ]
自転車に御乗んなさい
[#ここで字下げ終わり]
 ああ悲いかなこの自転車事件たるや、余はついに婆さんの命に従って自転車に乗るべく否自転車より落るべく「ラヴェンダー・ヒル」へと参らざるべからざる不運に際会せり、監督兼教師は○○氏なり、悄然《しょうぜん》たる余を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼はまず女乗の手頃なる奴《やつ》を撰《えら》んでこれがよかろうと云う、その理由いかにと尋ぬるに初学入門の捷径《しょうけい》はこれに限るよと降参人と見てとっていやに軽蔑《けいべつ》した文句を並べる、不肖《ふしょう》なりといえども軽少ながら鼻下に髯《ひげ》を蓄えたる男子に女の自転車で稽古《けいこ》をしろとは情ない、まあ落ちても善いから当り前の奴でやってみようと抗議を申し込む、もし採用されなかったら丈夫玉砕瓦全を恥ずとか何とか珍汾漢《ちんぷんかん》の気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《きえん》を吐こうと暗に下拵《したごしらえ》に黙っている、とそれならこれにしようと、いとも見苦しかりける男乗をぞあてがいける、思えらく能者筆を択《えら》ばず、どうせ落ちるのだから車の美醜などは構うものかと、あてがわれたる車を重そ
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