せるだけの説を述べなければすまないはずだと思います。よし平凡《へいぼん》な講演をするにしても、私の態度なり様子なりが、あなたがたをして礼を正さしむるだけの立派さをもっていなければならんはずのものであります。ただ私はお客である、あなたがたは主人である、だからおとなしくしなくてはならない、とこう云おうとすれば云われない事もないでしょうが、それは上面《うわつら》の礼式にとどまる事で、精神には何の関係もない云わば因襲《いんしゅう》といったようなものですから、てんで議論にはならないのです。別の例を挙げてみますと、あなたがたは教場で時々先生から叱られる事があるでしょう。しかし叱りっ放しの先生がもし世の中にあるとすれば、その先生は無論授業をする資格のない人です。叱る代りには骨を折って教えてくれるにきまっています。叱る権利をもつ先生はすなわち教える義務をももっているはずなのですから。先生は規律をただすため、秩序《ちつじょ》を保つために与えられた権利を十分に使うでしょう。その代りその権利と引き離す事のできない義務も尽《つく》さなければ、教師の職を勤め終《おお》せる訳に行きますまい。
金力についても同じ
前へ
次へ
全53ページ中36ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング