《みな》是《これ》なりと云いたいくらいごろごろしていました。他《ひと》の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。たとえばある西洋人が甲《こう》という同じ西洋人の作物を評したのを読んだとすると、その評の当否はまるで考えずに、自分の腑《ふ》に落ちようが落ちまいが、むやみにその評を触《ふ》れ散らかすのです。つまり鵜呑《うのみ》と云ってもよし、また機械的の知識と云ってもよし、とうていわが所有とも血とも肉とも云われない、よそよそしいものを我物顔《わがものがお》にしゃべって歩くのです。しかるに時代が時代だから、またみんながそれを賞《ほ》めるのです。
 けれどもいくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀《くじゃく》の羽根を身に着けて威張っているようなものですから。それでもう少し浮華《ふか》を去って摯実《しじつ》につかなければ、自分の腹の中はいつまで経《た》ったって安心はできないという事に気がつき出したのです。
 たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売《うけうり》をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢《どひ》でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具《そな》えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
 しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいうところと私の考《かんがえ》と矛盾《むじゅん》してはどうも普通《ふつう》の場合気が引ける事になる。そこでこうした矛盾がはたしてどこから出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、溯《さかのぼ》っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない。それを、普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものはきっと乙《おつ》の国民の賞讃を得るにきまっている、そうした必然性が含《ふく》まれていると誤認してかかる。そこが間違っていると云わなければならない。たといこの矛盾を融和《ゆうわ》する事が不可能にしても、それを説明する事はできるはずだ。そうして単にその説明だけでも日本の文壇《ぶんだん》には一道
前へ 次へ
全27ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング