に云う事ができなかったのである。
自分は歩きながら自分の卑怯《ひきょう》を恥じた。同時に三沢の卑怯を悪《にく》んだ。けれどもあさましい人間である以上、これから先何年|交際《まじわり》を重ねても、この卑怯を抜く事はとうていできないんだという自覚があった。自分はその時非常に心細くなった。かつ悲しくなった。
自分はその明日《あした》病院へ行って三沢の顔を見るや否や、「もう退院は勧めない」と断った。自分は手を突いて彼の前に自分の罪を詫《わ》びる心持でこう云ったのである。すると三沢は「いや僕もそうぐずぐずしてはいられない。君の忠告に従っていよいよ出る事にした」と答えた。彼は今朝院長から退院の許可を得た旨《むね》を話して、「あまり動くと悪いそうだから寝台で東京まで直行する事にした」と告げた。自分はその突然なのに驚いた。
二十八
「どうしてまたそう急に退院する気になったのか」
自分はこう聞いて見ないではいられなかった。三沢は自分の問に答える前にじっと自分の顔を見た。自分はわが顔を通して、わが心を読まれるような気がした。
「別段これという訳もないが、もう出る方が好かろうと思って……」
三沢はこれぎり何にも云わなかった。自分も黙っているよりほかに仕方がなかった。二人はいつもより沈んで相対していた。看護婦はすでに帰った後《あと》なので、室《へや》の中はことに淋《さみ》しかった。今まで蒲団《ふとん》の上に胡坐《あぐら》をかいていた彼は急に倒れるように仰向《あおむき》に寝た。そうして上眼《うわめ》を使って窓の外を見た。外にはいつものように色の強い青空が、ぎらぎらする太陽の熱を一面に漲《みなぎ》らしていた。
「おい君」と彼はやがて云った。「よく君の話す例の男ね。あの男は金を持っていないかね」
自分は固《もと》より岡田の経済事情を知ろうはずがなかった。あの始末屋《しまつや》の御兼さんの事を考えると、金という言葉を口から出すのも厭《いや》だった。けれどもいざ三沢の出院となれば、そのくらいな手数《てかず》は厭《いと》うまいと、昨日《きのう》すでに覚悟をきめたところであった。
「節倹家だから少しは持ってるだろう」
「少しで好いから借りて来てくれ」
自分は彼が退院するについて会計へ払う入院料に困るのだと思った。それでどのくらい不足なのかを確めた。ところが事実は案外であった。
「ここの払と東京へ帰る旅費ぐらいはどうかこうか持っているんだ。それだけなら何も君を煩《わずら》わす必要はない」
彼は大した物持《ものもち》の家に生れた果報者でもなかったけれども、自分が一人息子だけに、こういう点にかけると、自分達よりよほど自由が利《き》いた。その上母や親類のものから京都で買物を頼まれたのを、新しい道伴《みちづれ》ができたためつい大阪まで乗り越して、いまだに手を着けない金が余っていたのである。
「じゃただ用心のために持って行こうと云うんだね」
「いや」と彼は急に云った。
「じゃどうするんだ」と自分は問いつめた。
「どうしても僕の勝手だ。ただ借りてくれさえすれば好いんだ」
自分はまた腹が立った。彼は自分をまるで他人扱いにしているのである。自分は憤《むっ》として黙っていた。
「怒っちゃいけない」と彼が云った。「隠すんじゃない、君に関係のない事を、わざと吹聴《ふいちょう》するように見えるのが厭だから、知らせずにおこうと思っただけだから」
自分はまだ黙っていた。彼は寝ながら自分の顔を見上げていた。
「そんなら話すがね」と彼が云い出した。
「僕はまだあの女を見舞ってやらない。向《むこう》でもそんな事は待ち受けてやしないだろうし、僕も必ず見舞に行かなければならないほどの義理はない。が、僕は何だかあの女の病気を危険にした本人だという自覚がどうしても退《の》かない。それでどっちが先へ退院するにしても、その間際《まぎわ》に一度会っておきたいと始終《しじゅう》思っていた。見舞じゃない、詫《あや》まるためにだよ。気の毒な事をしたと一口詫まればそれで好いんだ。けれどもただ詫まる訳にも行かないから、それで君に頼んで見たのだ。しかし君の方の都合が悪ければ強いてそうして貰わないでもどうかなるだろう。宅《うち》へ電報でもかけたら」
二十九
自分は行《ゆき》がかり上《じょう》一応岡田に当って見る必要があった。宅《うち》へ電報を打つという三沢をちょっと待たして、ふらりと病院の門を出た。岡田の勤めている会社は、三沢の室《へや》とは反対の方向にあるので、彼の窓から眺《なが》める訳には行かないけれども、道程《みちのり》からいうといくらもなかった。それでも暑いので歩いて行くうちに汗が背中を濡《ぬ》らすほど出た。
彼は自分の顔を見るや否や、さも久しぶりに会った人らしく「やっしばらく」と叫ぶように云った。そうしてこれまでたびたび電話で繰り返した挨拶《あいさつ》をまた新しくまのあたり述べた。
自分と岡田とは今でこそ少し改まった言葉使もするが、昔を云えば、何の遠慮もない間柄であった。その頃は金も少しは彼のために融通してやった覚《おぼえ》がある。自分は勇気を鼓舞《こぶ》するために、わざとその当時の記憶を呼起してかかった。何にも知らない彼は、立ちながら元気な声を出して、「どうです二郎さん、僕の予言は」と云った。「どうかこうか一週間うちにあなたを驚かす事ができそうじゃありませんか」
自分は思い切って、まず肝心《かんじん》の用事を話した。彼は案外な顔をして聞いていたが、聞いてしまうとすぐ、「ようがす、そのくらいならどうでもします」と容易に引き受けてくれた。
彼は固《もと》よりその隠袋《ポッケット》の中《うち》に入用《いりよう》の金を持っていなかった。「明日《あした》でも好いんでしょう」と聞いた。自分はまた思い切って、「できるなら今日中《きょうじゅう》に欲しいんだ」と強いた。彼はちょっと当惑したように見えた。
「じゃ仕方がない迷惑でしょうけれども、手紙を書きますから、宅《うち》へ持って行ってお兼に渡して下さいませんか」
自分はこの事件についてお兼さんと直接の交渉はなるべく避けたかったけれども、この場合やむをえなかったので、岡田の手紙を懐《ふところ》へ入れて、天下茶屋へ行った。お兼さんは自分の声を聞くや否や上り口まで馳《か》け出して来て、「この御暑いのによくまあ」と驚いてくれた。そうして、「さあどうぞ」を二三返繰返したが、自分は立ったまま「少し急ぎますから」と断って、岡田の手紙を渡した。お兼さんは上り口に両膝《りょうひざ》を突いたなり封を切った。
「どうもわざわざ恐れ入りましたね。それではすぐ御伴をして参りますから」とすぐ奥へ入った。奥では用箪笥《ようだんす》の環《かん》の鳴る音がした。
自分はお兼さんと電車の終点までいっしょに乗って来てそこで別れた。「では後《のち》ほど」と云いながらお兼さんは洋傘《こうもり》を開いた。自分はまた俥《くるま》を急がして病院へ帰った。顔を洗ったり、身体《からだ》を拭いたり、しばらく三沢と話しているうちに、自分は待ち設けた通りお兼さんから病院の玄関まで呼び出された。お兼さんは帯の間にある銀行の帳面を抜いて、そこに挟《はさ》んであった札《さつ》を自分の手の上に乗せた。
「ではどうぞちょっと御改ためなすって」
自分は形式的にそれを勘定した上、「確《たしか》に。――どうもとんだ御手数《おてかず》をかけました。御暑いところを」と礼を述べた。実際急いだと見えてお兼さんは富士額の両脇を、細かい汗の玉でじっとりと濡《ぬ》らしていた。
「どうです、ちっと上って涼んでいらしったら」
「いいえ今日《こんにち》は急ぎますから、これで御免《ごめん》を蒙《こうむ》ります。御病人へどうぞよろしく。――でも結構でございましたね、早く御退院になれて。一時は宅でも大層心配致しまして、よく電話で御様子を伺ったとか申しておりましたが」
お兼さんはこんな愛想《あいそ》を云いながら、また例のクリーム色の洋傘《こうもり》を開いて帰って行った。
三十
自分は少し急《せ》き込んでいた。紙幣《しへい》を握ったまま段々を馳《か》け上るように三階まで来た。三沢は平生よりは落ちついていなかった。今火を点《つ》けたばかりの巻煙草《まきたばこ》をいきなり灰吹《はいふき》の中に放り込んで、ありがとうともいわずに、自分の手から金を受取った。自分は渡した金の高を注意して、「好いか」と聞いた。それでも彼はただうんと云っただけである。
彼はじっと「あの女」の室《へや》の方を見つめた。時間の具合で、見舞に来たものの草履《ぞうり》は一足も廊下の端《はじ》に脱ぎ棄《す》ててなかった。平生から静過ぎる室の中は、ことに寂寞としていた。例の美くしい看護婦は相変らず角の柱に倚《よ》りかかって、産婆学の本か何か読んでいた。
「あの女は寝ているのかしら」
彼は「あの女」の室《へや》へ入るべき好機会を見出しながら、かえってその眠を妨《さまた》げるのを恐れるように見えた。
「寝ているかも知れない」と自分も思った。
しばらくして三沢は小さな声で「あの看護婦に都合を聞いて貰おうか」と云い出した。彼はまだこの看護婦に口を利《き》いた事がないというので、自分がその役を引受けなければならなかった。
看護婦は驚いたようなまたおかしいような顔をして自分を見た。けれどもすぐ自分の真面目な態度を認めて、室の中へ入って行った。かと思うと、二分と経《た》たないうちに笑いながらまた出て来た。そうして今ちょうど気分の好いところだからお目にかかれるという患者の承諾をもたらした。三沢は黙って立ち上った。
彼は自分の顔も見ず、また看護婦の顔も見ず、黙って立ったなり、すっと「あの女」の室の中へ姿を隠した。自分は元の座に坐《すわ》って、ぼんやりその後影《うしろかげ》を見送った。彼の姿が見えなくなってもやはり空《くう》に同じ所を見つめていた。冷淡なのは看護婦であった。ちょっと侮蔑《あなどり》の微笑《びしょう》を唇《くちびる》の上に漂《ただよ》わせて自分を見たが、それなり元の通り柱に背を倚《よ》せて、黙って読みかけた書物をまた膝《ひざ》の上にひろげ始めた。
室の中は三沢の入った後も彼の入らない前も同じように静《しずか》であった。話し声などは無論聞こえなかった。看護婦は時々不意に眼を上げて室の奥の方を見た。けれども自分には何の相図《あいず》もせずに、すぐその眼を頁《ページ》の上に落した。
自分はこの三階の宵《よい》の間《ま》に虫の音らしい涼しさを聴《き》いた例《ためし》はあるが、昼のうちにやかましい蝉《せみ》の声はついぞ自分の耳に届いた事がない。自分のたった一人で坐っている病室はその時明かな太陽の光を受けながら、真夜中よりもなお静かであった。自分はこの死んだような静かさのために、かえって神経を焦《い》らつかせて、「あの女」の室から三沢の出るのを待ちかねた。
やがて三沢はのっそりと出て来た。室の敷居を跨《また》ぐ時、微笑しながら「御邪魔さま。大勉強だね」と看護婦に挨拶《あいさつ》する言葉だけが自分の耳に入った。
彼は上草履《うわぞうり》の音をわざとらしく高く鳴らして、自分の室に入るや否や、「やっと済んだ」と云った。自分は「どうだった」と聞いた。
「やっと済んだ。これでもう出ても好い」
三沢は同じ言葉を繰返すだけで、その他には何にも云わなかった。自分もそれ以上は聞き得なかった。ともかくも退院の手続を早くする方が便利だと思って、そこらに散らばっているものを片づけ始めた。三沢も固《もと》よりじっとしてはいなかった。
三十一
二人は俥《くるま》を雇《やと》って病院を出た。先へ梶棒《かじぼう》を上げた三沢の車夫が余り威勢よく馳《か》けるので、自分は大きな声でそれを留めようとした。三沢は後《うしろ》を振り向いて、手を振った。「大丈夫、大丈夫」と云うらしく聞こえたから、自分もそれなりにして注意はしなかっ
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