た。宿へ着いたとき、彼は川縁《かわべり》の欄干《らんかん》に両手を置いて、眼の下の広い流をじっと眺《なが》めていた。
「どうした。心持でも悪いか」と自分は後から聞いた。彼は後を向かなかった。けれども「いいや」と答えた。「ここへ来てこの河を見るまでこの室《へや》の事をまるで忘れていた」
 そういって、彼は依然として流れに向っていた。自分は彼をそのままにして、麻の座蒲団《ざぶとん》の上に胡坐《あぐら》をかいた。それでも待遠しいので、やがて袂《たもと》から敷島《しきしま》の袋を出して、煙草を吸い始めた。その煙草が三分の一|煙《けむ》になった頃、三沢はようやく手摺《てすり》を離れて自分の前へ来て坐《すわ》った。
「病院で暮らしたのも、つい昨日今日のようだが、考えて見ると、もうだいぶんになるんだね」と云って指を折りながら、日数《ひかず》を勘定《かんじょう》し出した。
「三階の光景が当分眼を離れないだろう」と自分は彼の顔を見た。
「思いも寄らない経験をした。これも何かの因縁《いんねん》だろう」と三沢も自分の顔を見た。
 彼は手を叩《たた》いて、下女を呼んで今夜の急行列車の寝台《しんだい》を注文した。それから時計を出して、食事を済ました後《あと》、時間にどのくらい余裕があるかを見た。窮屈に馴《な》れない二人はやがて転《ごろ》りと横になった。
「あの女は癒《なお》りそうなのか」
「そうさな。事によると癒るかも知れないが……」
 下女が誂《あつら》えた水菓子を鉢《はち》に盛って、梯子段《はしごだん》を上って来たので、「あの女」の話はこれで切れてしまった。自分は寝転《ねころ》んだまま、水菓子を食った。その間彼はただ自分の口の辺《あたり》を見るばかりで、何事も云わなかった。しまいにさも病人らしい調子で、「おれも食いたいな」と一言《ひとこと》云った。先刻《さっき》から浮かない様子を見ていた自分は、「構うものか、食うが好い。食え食え」と勧めた。三沢は幸いにして自分が氷菓子《アイスクリーム》を食わせまいとしたあの日の出来事を忘れていた。彼はただ苦笑いをして横を向いた。
「いくら好《すき》だって、悪いと知りながら、無理に食わせられて、あの女のようになっちゃ大変だからな」
 彼は先刻から「あの女」の事を考えているらしかった。彼は今でも「あの女」の事を考えているとしか思われなかった。
「あの女は君を覚えていたかい」
「覚えているさ。この間会って、僕から無理に酒を呑まされたばかりだもの」
「恨《うら》んでいたろう」
 今まで横を向いてそっぽへ口を利《き》いていた三沢は、この時急に顔を向け直してきっと正面から自分を見た。その変化に気のついた自分はすぐ真面目な顔をした。けれども彼があの女の室に入った時、二人の間にどんな談話が交換されたかについて、彼はついに何事をも語らなかった。
「あの女はことによると死ぬかも知れない。死ねばもう会う機会はない。万一《まんいち》癒《なお》るとしても、やっぱり会う機会はなかろう。妙なものだね。人間の離合というと大袈裟《おおげさ》だが。それに僕から見れば実際離合の感があるんだからな。あの女は今夜僕の東京へ帰る事を知って、笑いながら御機嫌《ごきげん》ようと云った。僕はその淋《さび》しい笑を、今夜何だか汽車の中で夢に見そうだ」

        三十二

 三沢はただこう云った。そうして夢に見ない先からすでに「あの女」の淋しい笑い顔を眼の前に浮べているように見えた。三沢に感傷的のところがあるのは自分もよく承知していたが、単にあれだけの関係で、これほどあの女に動かされるのは不審であった。自分は三沢と「あの女」が別れる時、どんな話をしたか、詳しく聞いて見ようと思って、少し水を向けかけたが、何の効果もなかった。しかも彼の態度が惜しいものを半分|他《ひと》に配《わ》けてやると、半分無くなるから厭《いや》だという風に見えたので、自分はますます変な気持がした。
「そろそろ出かけようか。夜の急行は込むから」ととうとう自分の方で三沢を促《うな》がすようになった。
「まだ早い」と三沢は時計を見せた。なるほど汽車の出るまでにはまだ二時間ばかり余っていた。もう「あの女」の事は聞くまいと決心した自分は、なるべく病院の名前を口へ出さずに、寝転《ねころ》びながら彼と通り一遍の世間話を始めた。彼はその時|人並《ひとなみ》の受け答をした。けれどもどこか調子に乗らないところがあるので、何となく不愉快そうに見えた。それでも席は動かなかった。そうしてしまいには黙って河の流ればかり眺《なが》めていた。
「まだ考えている」と自分は大きな声を出してわざと叫んだ。三沢は驚いて自分を見た。彼はこういう場合にきっと、御前はヴァルガーだと云う眼つきをして、一瞥《いちべつ》の侮辱を自分に与えなければ承知しなかったが、この時に限ってそんな様子はちっとも見せなかった。
「うん考えている」と軽く云った。「君に打ち明けようか、打ち明けまいかと迷っていたところだ」と云った。
 自分はその時彼から妙な話を聞いた。そうしてその話が直接「あの女」と何の関係もなかったのでなおさら意外の感に打たれた。
 今から五六年前彼の父がある知人の娘を同じくある知人の家に嫁《よめ》らした事があった。不幸にもその娘さんはある纏綿《てんめん》した事情のために、一年|経《た》つか経たないうちに、夫の家を出る事になった。けれどもそこにもまた複雑な事情があって、すぐわが家に引取られて行く訳に行かなかった。それで三沢の父が仲人《なこうど》という義理合から当分この娘さんを預かる事になった。――三沢はいったん嫁《とつ》いで出て来た女を娘さん娘さんと云った。
「その娘さんは余り心配したためだろう、少し精神に異状を呈していた。それは宅《うち》へ来る前か、あるいは来てからかよく分らないが、とにかく宅のものが気がついたのは来てから少し経ってからだ。固《もと》より精神に異状を呈しているには相違なかろうが、ちょっと見たって少しも分らない。ただ黙って欝《ふさ》ぎ込んでいるだけなんだから。ところがその娘さんが……」
 三沢はここまで来て少し躊躇《ちゅうちょ》した。
「その娘さんがおかしな話をするようだけれども、僕が外出するときっと玄関まで送って出る。いくら隠れて出ようとしてもきっと送って出る。そうして必ず、早く帰って来てちょうだいねと云う。僕がええ早く帰りますからおとなしくして待っていらっしゃいと返事をすれば合点《がってん》合点をする。もし黙っていると、早く帰って来てちょうだいね、ね、と何度でも繰返す。僕は宅《うち》のものに対してきまりが悪くってしようがなかった。けれどもまたこの娘さんが不憫《ふびん》でたまらなかった。だから外出してもなるべく早く帰るように心がけていた。帰るとその人の傍《そば》へ行って、立ったままただいまと一言《ひとこと》必ず云う事にしていた」
 三沢はそこへ来てまた時計を見た。
「まだ時間はあるね」と云った。

        三十三

 その時自分はこれぎりでその娘さんの話を止《や》められてはと思った。幸いに時間がまだだいぶあったので、自分の方から何とも云わない先に彼はまた語り続けた。
「宅のものがその娘さんの精神に異状があるという事を明かに認め出してからはまだよかったが、知らないうちは今云った通り僕もその娘さんの露骨なのにずいぶん弱らせられた。父や母は苦《にが》い顔をする。台所のものはないしょでくすくす笑う。僕は仕方がないから、その娘さんが僕を送って玄関まで来た時、烈《はげ》しく怒りつけてやろうかと思って、二三度|後《うしろ》を振り返って見たが、顔を合《あわ》せるや否や、怒るどころか、邪慳《じゃけん》な言葉などは可哀《かわい》そうでとても口から出せなくなってしまった。その娘さんは蒼《あお》い色の美人だった。そうして黒い眉毛《まゆげ》と黒い大きな眸《ひとみ》をもっていた。その黒い眸は始終《しじゅう》遠くの方の夢を眺《ながめ》ているように恍惚《うっとり》と潤《うるお》って、そこに何だか便《たより》のなさそうな憐《あわれ》を漂《ただ》よわせていた。僕が怒ろうと思ってふり向くと、その娘さんは玄関に膝《ひざ》を突いたなりあたかも自分の孤独を訴《うった》えるように、その黒い眸を僕に向けた。僕はそのたびに娘さんから、こうして活きていてもたった一人で淋《さむ》しくってたまらないから、どうぞ助けて下さいと袖《そで》に縋《すが》られるように感じた。――その眼がだよ。その黒い大きな眸が僕にそう訴えるのだよ」
「君に惚《ほ》れたのかな」と自分は三沢に聞きたくなった。
「それがさ。病人の事だから恋愛なんだか病気なんだか、誰にも解るはずがないさ」と三沢は答えた。
「色情狂っていうのは、そんなもんじゃないのかな」と自分はまた三沢に聞いた。
 三沢は厭《いや》な顔をした。
「色情狂と云うのは、誰にでもしなだれかかるんじゃないか。その娘さんはただ僕を玄関まで送って出て来て、早く帰って来てちょうだいねと云うだけなんだから違うよ」
「そうか」
 自分のこの時の返事は全く光沢《つや》がなさ過ぎた。
「僕は病気でも何でも構わないから、その娘さんに思われたいのだ。少くとも僕の方ではそう解釈していたいのだ」と三沢は自分を見つめて云った。彼の顔面の筋肉はむしろ緊張していた。「ところが事実はどうもそうでないらしい。その娘さんの片づいた先の旦那《だんな》というのが放蕩家《ほうとうか》なのか交際家なのか知らないが、何でも新婚早々たびたび家《うち》を空《あ》けたり、夜遅く帰ったりして、その娘さんの心をさんざん苛《いじ》めぬいたらしい。けれどもその娘さんは一口も夫に対して自分の苦みを言わずに我慢していたのだね。その時の事が頭に祟《たた》っているから、離婚になった後《あと》でも旦那に云いたかった事を病気のせいで僕に云ったのだそうだ。――けれども僕はそう信じたくない。強《し》いてもそうでないと信じていたい」
「それほど君はその娘さんが気に入ってたのか」と自分はまた三沢に聞いた。
「気に入るようになったのさ。病気が悪くなればなるほど」
「それから。――その娘さんは」
「死んだ。病院へ入《い》って」
 自分は黙然《もくねん》とした。
「君から退院を勧められた晩、僕はその娘さんの三回忌を勘定《かんじょう》して見て、単にそのためだけでも帰りたくなった」と三沢は退院の動機を説明して聞かせた。自分はまだ黙っていた。
「ああ肝心《かんじん》の事を忘れた」とその時三沢が叫んだ。自分は思わず「何だ」と聞き返した。
「あの女の顔がね、実はその娘さんに好く似ているんだよ」
 三沢の口元には解ったろうと云う一種の微笑が見えた。二人はそれからじきに梅田の停車場《ステーション》へ俥《くるま》を急がした。場内は急行を待つ乗客ですでにいっぱいになっていた。二人は橋を向《むこう》へ渡って上《のぼ》り列車を待ち合わせた。列車は十分と立たないうちに地を動かして来た。
「また会おう」
 自分は「あの女」のために、また「その娘さん」のために三沢の手を固く握った。彼の姿は列車の音と共にたちまち暗中《あんちゅう》に消えた。


     兄


        一

 自分は三沢を送った翌日《あくるひ》また母と兄夫婦とを迎えるため同じ停車場《ステーション》に出かけなければならなかった。
 自分から見るとほとんど想像さえつかなかったこの出来事を、始めから工夫して、とうとうそれを物にするまで漕《こ》ぎつけたものは例の岡田であった。彼は平生からよくこんな技巧を弄《ろう》してその成効《せいこう》に誇るのが好《すき》であった。自分をわざわざ電話口へ呼び出して、そのうちきっと自分を驚かして見せると断ったのは彼である。それからほどなく、お兼さんが宿屋へ尋ねて来て、その訳を話した時には、自分も実際驚かされた。
「どうして来るんです」と自分は聞いた。
 自分が東京を立つ前に、母の持っていた、ある場末《ばすえ》の地面が、新たに電車の布設される通
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