の病気に対しては責任があるんだから……」
二十一
大阪へ着くとそのまま、友達といっしょに飲みに行ったどこかの茶屋で、三沢は「あの女」に会ったのである。
三沢はその時すでに暑さのために胃に変調を感じていた。彼を強《し》いた五六人の友達は、久しぶりだからという口実のもとに、彼を酔わせる事を御馳走《ごちそう》のように振舞《ふるま》った。三沢も宿命に従う柔順な人として、いくらでも盃《さかずき》を重ねた。それでも胸の下の所には絶えず不安な自覚があった。ある時は変な顔をして苦しそうに生唾《なまつばき》を呑《の》み込んだ。ちょうど彼の前に坐っていた「あの女」は、大阪言葉で彼に薬をやろうかと聞いた。彼はジェムか何かを五六粒手の平《ひら》へ載《の》せて口のなかへ投げ込んだ。すると入物を受取った女も同じように白い掌《てのひら》の上に小さな粒を並べて口へ入れた。
三沢は先刻《さっき》から女の倦怠《だる》そうな立居に気をつけていたので、御前もどこか悪いのかと聞いた。女は淋《さび》しそうな笑いを見せて、暑いせいか食慾がちっとも進まないので困っていると答えた。ことにこの一週間は御飯が厭《いや》で、ただ氷ばかり呑んでいる、それも今呑んだかと思うと、すぐまた食べたくなるんで、どうもしようがないと云った。
三沢は女に、それはおおかた胃が悪いのだろうから、どこかへ行って専門の大家にでも見せたら好かろうと真面目な忠告をした。女も他《ひと》に聞くと胃病に違ないというから、好い医者に見せたいのだけれども家業が家業だからと後《あと》は云い渋っていた。彼はその時女から始めてここの病院と院長の名前を聞いた。
「僕もそう云う所へちょっと入ってみようかな。どうも少し変だ」
三沢は冗談《じょうだん》とも本気ともつかない調子でこんな事を云って、女から縁喜《えんぎ》でもないように眉《まゆ》を寄せられた。
「それじゃまあたんと飲んでから後《あと》の事にしよう」と三沢は彼の前にある盃《さかずき》をぐっと干して、それを女の前に突き出した。女はおとなしく酌をした。
「君も飲むさ。飯は食えなくっても、酒なら飲めるだろう」
彼は女を前に引きつけてむやみに盃をやった。女も素直《すなお》にそれを受けた。しかししまいには堪忍《かんにん》してくれと云い出した。それでもじっと坐ったまま席を立たなかった。
「酒を呑《の》んで胃病の虫を殺せば、飯なんかすぐ喰える。呑まなくっちゃ駄目だ」
三沢は自暴《やけ》に酔ったあげく、乱暴な言葉まで使って女に酒を強《し》いた。それでいて、己れの胃の中には、今にも爆発しそうな苦しい塊《かたまり》が、うねりを打っていた。
* * * *
自分は三沢の話をここまで聞いて慄《ぞっ》とした。何の必要があって、彼は己《おのれ》の肉体をそう残酷に取扱ったのだろう。己れは自業自得としても、「あの女」の弱い身体《からだ》をなんでそう無益《むやく》に苦めたものだろう。
「知らないんだ。向《むこう》は僕の身体を知らないし、僕はまたあの女の身体を知らないんだ。周囲《まわり》にいるものはまた我々二人の身体を知らないんだ。そればかりじゃない、僕もあの女も自分で自分の身体が分らなかったんだ。その上僕は自分の胃《い》の腑《ふ》が忌々《いまいま》しくってたまらなかった。それで酒の力で一つ圧倒してやろうと試みたのだ。あの女もことによると、そうかも知れない」
三沢はこう云って暗然としていた。
二十二
「あの女」は室《へや》の前を通っても廊下からは顔の見えない位置に寝ていた。看護婦は入口の柱の傍《そば》へ寄って覗《のぞ》き込むようにすれば見えると云って自分に教えてくれたけれども自分にはそれをあえてするほどの勇気がなかった。
附添の看護婦は暑いせいか大概はその柱にもたれて外の方ばかり見ていた。それがまた看護婦としては特別|器量《きりょう》が好いので、三沢は時々不平な顔をして人を馬鹿にしているなどと云った。彼の看護婦はまた別の意味からして、この美しい看護婦を好く云わなかった。病人の世話をそっちのけにするとか、不親切だとか、京都に男があって、その男から手紙が来たんで夢中なんだとか、いろいろの事を探って来ては三沢や自分に報告した。ある時は病人の便器を差し込んだなり、引き出すのを忘れてそのまま寝込んでしまった怠慢《たいまん》さえあったと告げた。
実際この美しい看護婦が器量の優《すぐ》れている割合に義務を重んじなかった事は自分達の眼にもよく映った。
「ありゃ取り換えてやらなくっちゃ、あの女が可哀《かわい》そうだね」と三沢は時々|苦《にが》い顔をした。それでもその看護婦が入口の柱にもたれて、うとうとしていると、彼はわが室《へや》の中《うち》からその横顔をじっと見つめている事があった。
「あの女」の病勢もこっちの看護婦の口からよく洩《も》れた。――牛乳でも肉汁《ソップ》でも、どんな軽い液体でも狂った胃がけっして受けつけない。肝心《かんじん》の薬さえ厭《いや》がって飲まない。強いて飲ませると、すぐ戻してしまう。
「血は吐くかい」
三沢はいつでもこう云って看護婦に反問した。自分はその言葉を聞くたびに不愉快な刺戟《しげき》を受けた。
「あの女」の見舞客は絶えずあった。けれども外《ほか》の室《へや》のように賑《にぎや》かな話し声はまるで聞こえなかった。自分は三沢の室に寝ころんで、「あの女」の室を出たり入ったりする島田や銀杏返《いちょうがえ》しの影をいくつとなく見た。中には眼の覚《さ》めるように派出《はで》な模様の着物を着ているものもあったが、大抵は素人《しろうと》に近い地味《じみ》な服装《なり》で、こっそり来てこっそり出て行くのが多かった。入口であら姐《ねえ》はんという感投詞《かんとうし》を用いたものもあったが、それはただの一遍に過ぎなかった。それも廊下の端《はじ》に洋傘《こうもり》を置いて室の中へ入るや否や急に消えたように静かになった。
「君はあの女を見舞ってやったのか」と自分は三沢に聞いた。
「いいや」と彼は答えた。「しかし見舞ってやる以上の心配をしてやっている」
「じゃ向うでもまだ知らないんだね。君のここにいる事は」
「知らないはずだ、看護婦でも云わない以上は。あの女の入院するとき僕はあの女の顔を見てはっと思ったが、向うでは僕の方を見なかったから、多分知るまい」
三沢は病院の二階に「あの女」の馴染客《なじみきゃく》があって、それが「お前胃のため、わしゃ腸のため、共に苦しむ酒のため」という都々逸《どどいつ》を紙片《かみぎれ》へ書いて、あの女の所へ届けた上、出院のとき袴《はかま》羽織《はおり》でわざわざ見舞に来た話をして、何という馬鹿だという顔つきをした。
「静かにして、刺戟《しげき》のないようにしてやらなくっちゃいけない。室でもそっと入って、そっと出てやるのが当り前だ」と彼は云った。
「ずいぶん静じゃないか」と自分は云った。
「病人が口を利《き》くのを厭《いや》がるからさ。悪い証拠《しょうこ》だ」と彼がまた云った。
二十三
三沢は「あの女」の事を自分の予想以上に詳《くわ》しく知っていた。そうして自分が病院に行くたびに、その話を第一の問題として持ち出した。彼は自分のいない間《ま》に得た「あの女」の内状を、あたかも彼と関係ある婦人の内所話《ないしょばなし》でも打ち明けるごとくに語った。そうしてそれらの知識を自分に与えるのを誇りとするように見えた。
彼の語るところによると「あの女」はある芸者屋の娘分として大事に取扱かわれる売子《うれっこ》であった。虚弱な当人はまたそれを唯一の満足と心得て商売に勉強していた。ちっとやそっと身体《からだ》が悪くてもけっして休むような横着はしなかった。時たま堪《た》えられないで床に就《つ》く場合でも、早く御座敷に出たい出たいというのを口癖にしていた。……
「今あの女の室《へや》に来ているのは、その芸者屋に古くからいる下女さ。名前は下女だけれど、古くからいるんで、自然権力があるから、下女らしくしちゃいない。まるで叔母さんか何ぞのようだ。あの女も下女のいう事だけは素直によく聞くので、厭《いや》がる薬を呑ませたり、わがままを云い募《つの》らせないためには必要な人間なんだ」
三沢はすべてこういう内幕《うちまく》の出所《でどころ》をみんな彼の看護婦に帰して、ことごとく彼女から聞いたように説明した。けれども自分は少しそこに疑わしい点を認めないでもなかった。自分は三沢が便所へ行った留守に、看護婦を捕《つら》まえて、「三沢はああ云ってるが、僕のいないとき、あの女の室へ行って話でもするんじゃないか」と聞いて見た。看護婦は真面目《まじめ》な顔をして「そんな事ありゃしまへん」というような言葉で、一口に自分の疑いを否定した。彼女はそれからそういうお客が見舞に行ったところで、身上話などができるはずがないと弁解した。そうして「あの女」の病気がだんだん険悪の一方へ落ち込んで行く心細い例を話して聞かせた。
「あの女」は嘔気《はきけ》が止まないので、上から営養の取りようがなくなって、昨日《きのう》とうとう滋養浣腸《じようかんちょう》を試みた。しかしその結果は思わしくなかった。少量の牛乳と鶏卵《たまご》を混和した単純な液体ですら、衰弱を極《きわ》めたあの女の腸には荷が重過ぎると見えて予期通り吸収されなかった。
看護婦はこれだけ語って、このくらい重い病人の室へ入って、誰が悠々《ゆうゆう》と身上話などを聞いていられるものかという顔をした。自分も彼女の云うところが本当だと思った。それで三沢の事は忘れて、ただ綺羅《きら》を着飾った流行の芸者と、恐ろしい病気に罹《かか》った憐《あわれ》な若い女とを、黙って心のうちに対照した。
「あの女」は器量と芸を売る御蔭《おかげ》で、何とかいう芸者屋の娘分になって家《うち》のものから大事がられていた。それを売る事ができなくなった今でも、やはり今まで通り宅《うち》のものから大事がられるだろうか。もし彼らの待遇が、あの女の病気と共にだんだん軽薄に変って行くなら、毒悪《どくあく》な病と苦戦するあの女の心はどのくらい心細いだろう。どうせ芸妓屋《げいしゃや》の娘分になるくらいだから、生みの親は身分のあるものでないにきまっている。経済上の余裕がなければ、どう心配したって役には立つまい。
自分はこんな事も考えた。便所から帰った三沢に「あの女の本当の親はあるのか知ってるか」と尋ねて見た。
二十四
「あの女」の本当の母というのを、三沢はたった一遍見た事があると語った。
「それもほんの後姿《うしろすがた》だけさ」と彼はわざわざ断《ことわ》った。
その母というのは自分の想像|通《どおり》、あまり楽《らく》な身分の人ではなかったらしい。やっとの思いでさっぱりした身装《みなり》をして出て来るように見えた。たまに来てもさも気兼《きがね》らしくこそこそと来ていつの間《ま》にか、また梯子段《はしごだん》を下りて人に気のつかないように帰って行くのだそうである。
「いくら親でも、ああなると遠慮ができるんだね」と三沢は云っていた。
「あの女」の見舞客はみんな女であった。しかも若い女が多数を占《し》めていた。それがまた普通の令嬢や細君と違って、色香《いろか》を命とする綺麗《きれい》な人ばかりなので、その中に交《まじ》るこの母は、ただでさえ燻《くす》ぶり過ぎて地味《じみ》なのである。自分は年を取った貧しそうなこの母の後姿を想像に描《えが》いて暗に憐《あわれ》を催した。
「親子の情合からいうと、娘があんな大病に罹《かか》ったら、母たるものは朝晩ともさぞ傍《そば》についていてやりたい気がするだろうね。他人の下女が幅を利《き》かしていて、実際の親が他人扱いにされるのは、見ていてもあまり好い心持じゃない」
「いくら親でも仕方がないんだよ。だいち傍にいてやるほどの時間もなし、時間があって
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