いと驚かせる事が出て来るかも知れませんよ」と妙な事を仄《ほの》めかした。自分は全く想像がつかないので、全体どんな話なんですかと二三度聞き返したが、岡田は笑いながら、「もう少しすれば解ります」というぎりなので、自分もとうとうその意味を聞かないで、三沢の室《へや》へ帰って来た。
「また例の男かい」と三沢が云った。
 自分は今の岡田の電話が気になって、すぐ大阪を立つ話を持ち出す心持になれなかった。すると思いがけない三沢の方から「君もう大阪は厭《いや》になったろう。僕のためにいて貰う必要はないから、どこかへ行くなら遠慮なく行ってくれ」と云い出した。彼はたとい病院を出る場合が来ても、むやみな山登りなどは当分慎まなければならないと覚《さと》ったと説明して聞かせた。
「それじゃ僕の都合の好いようにしよう」
 自分はこう答えてしばらく黙っていた。看護婦は無言のまま室の外に出て行った。自分はその草履《ぞうり》の音の消えるのを聞いていた。それから小さい声をして三沢に、「金はあるか」と尋ねた。彼は己《おの》れの病気をまだ己れの家に知らせないでいる。それにたった一人の知人たる自分が、彼の傍《そば》を立ち退《の》いたら、精神上よりも物質的に心細かろうと自分は懸念《けねん》した。
「君に才覚ができるのかい」と三沢は聞いた。
「別に目的《あて》もないが」と自分は答えた。
「例の男はどうだい」と三沢が云った。
「岡田か」と自分は少し考え込んだ。
 三沢は急に笑い出した。
「何いざとなればどうかなるよ。君に算段して貰わなくっても。金はあるにはあるんだから」と云った。

        十八

 金の事はついそれなりになった。自分は岡田へ金を借りに行く時の思いを想像すると実際|厭《いや》だった。病気に罹《かか》った友達のためだと考えても、少しも進む気はしなかった。その代りこの地を立つとも立たないとも決心し得ないでぐずぐずした。
 岡田からの電話はかかって来た時|大《おおい》に自分の好奇心を動揺させたので、わざわざ彼に会って真相を聞き糺《ただ》そうかと思ったけれども、一晩|経《た》つとそれも面倒になって、ついそのままにしておいた。
 自分は依然として病院の門を潜《くぐ》ったり出たりした。朝九時頃玄関にかかると、廊下も控所も外来の患者でいっぱいに埋《うま》っている事があった。そんな時には世間にもこれほど病人があり得るものかとわざと驚いたような顔をして、彼らの様子を一順《いちじゅん》見渡してから、梯子段《はしごだん》に足をかけた。自分が偶然あの女を見出だしたのは全くこの一瞬間にあった。あの女というのは三沢があの女あの女と呼ぶから自分もそう呼ぶのである。
 あの女はその時廊下の薄暗い腰掛の隅《すみ》に丸くなって横顔だけを見せていた。その傍《そば》には洗髪《あらいがみ》を櫛巻《くしまき》にした背の高い中年の女が立っていた。自分の一瞥《いちべつ》はまずその女の後姿《うしろすがた》の上に落ちた。そうして何だかそこにぐずぐずしていた。するとその年増《としま》が向うへ動き出した。あの女はその年増の影から現われたのである。その時あの女は忍耐の像のように丸くなってじっとしていた。けれども血色にも表情にも苦悶《くもん》の迹《あと》はほとんど見えなかった。自分は最初その横顔を見た時、これが病人の顔だろうかと疑った。ただ胸が腹に着くほど背中を曲げているところに、恐ろしい何物かが潜《ひそ》んでいるように思われて、それがはなはだ不快であった。自分は階段を上《のぼ》りつつ、「あの女」の忍耐と、美しい容貌《ようぼう》の下に包んでいる病苦とを想像した。
 三沢は看護婦から病院のAという助手の話を聞かされていた。このAさんは夜になって閑《ひま》になると、好く尺八《しゃくはち》を吹く若い男であった。独身《ひとり》もので病院に寝泊りをして、室《へや》は三沢と同じ三階の折れ曲った隅にあった。この間まで始終《しじゅう》上履《スリッパー》の音をぴしゃぴしゃ云わして歩いていたが、この二三日まるで顔を見せないので、三沢も自分も、どうかしたのかねぐらいは噂《うわさ》し合っていたのである。
 看護婦はAさんが時々|跛《びっこ》を引いて便所へ行く様子がおかしいと云って笑った。それから病院の看護婦が時々ガーゼと金盥《かなだらい》を持ってAさんの部屋へ入って行くところを見たとも云った。三沢はそういう話に興味があるでもなく、また無いでもないような無愛嬌《ぶあいきょう》な顔をして、ただ「ふん」とか「うん」とか答えていた。
 彼はまた自分にいつまで大阪にいるつもりかと聞いた。彼は旅行を断念してから、自分の顔を見るとよくこう云った。それが自分には遠慮がましくかつ催促がましく聞こえてかえって厭《いや》であった。
「僕の都合で帰ろうと思えばいつでも帰るさ」
「どうかそうしてくれ」
 自分は立って窓から真下を見下した。「あの女」はいくら見ていても門の外へ出て来なかった。
「日の当る所へわざわざ出て何をしているんだ」と三沢が聞いた。
「見ているんだ」と自分は答えた。
「何を見ているんだ」と三沢が聞き返した。

        十九

 自分はそれでも我慢して容易に窓側《まどぎわ》を離れなかった。つい向うに見える物干に、松だの石榴《ざくろ》だのの盆栽が五六|鉢《はち》並んでいる傍《そば》で、島田に結《い》った若い女が、しきりに洗濯ものを竿《さお》の先に通していた。自分はちょっとその方を見てはまた下を向いた。けれども待ち設けている当人はいつまで経《た》っても出て来る気色《けしき》はなかった。自分はとうとう暑さに堪《た》え切れないでまた三沢の寝床の傍へ来て坐《すわ》った。彼は自分の顔を見て、「どうも強情な男だな、他《ひと》が親切に云ってやればやるほど、わざわざ日の当る所に顔を曝《さら》しているんだから。君の顔は真赤《まっか》だよ」と注意した。自分は平生から三沢こそ強情な男だと思っていた。それで「僕の窓から首を出していたのは、君のような無意味な強情とは違う。ちゃんと目的があってわざと首を出したんだ」と少しもったいをつけて説明した。その代り肝心《かんじん》の「あの女」の事をかえって云い悪《にく》くしてしまった。
 ほど経《へ》て三沢はまた「先刻《さっき》は本当に何か見ていたのか」と笑いながら聞いた。自分はこの時もう気が変っていた。「あの女」を口にするのが愉快だった。どうせ強情な三沢の事だから、聞けばきっと馬鹿だとか下らないとか云って自分を冷罵するに違ないとは思ったが、それも気にはならなかった。そうしたら実は「あの女」について自分はある原因から特別の興味をもつようになったのだぐらい答えて、三沢を少し焦《じ》らしてやろうという下心さえ手伝った。
 ところが三沢は自分の予期とはまるで反対の態度で、自分のいう一句一句をさも感心したらしく聞いていた。自分も乗気になって一二分で済むところを三倍ほどに語り続けた。一番しまいに自分の言葉が途切れた時、三沢は「それは無論|素人《しろうと》なんじゃなかろうな」と聞いた。自分は「あの女」を詳《くわ》しく説明したけれども、つい芸者という言葉を使わなかったのである。
「芸者ならことによると僕の知っている女かも知れない」
 自分は驚かされた。しかしてっきり冗談《じょうだん》だろうと思った。けれども彼の眼はその反対を語っていた。そのくせ口元は笑っていた。彼は繰り返して「あの女」の眼つきだの鼻つきだのを自分に問うた。自分は梯子段《はしごだん》を上《のぼ》る時、その横顔を見たぎりなので、そう詳しい事は答えられないほどであった。自分にはただ背中を折って重なり合っているような憐《あわ》れな姿勢だけがありありと眼に映った。
「きっとあれだ。今に看護婦に名前を聞かしてやろう」
 三沢はこう云って薄笑いをした。けれども自分を担《かつ》いでる様子はさらに見えなかった。自分は少し釣り込まれた気味で、彼と「あの女」との関係を聞こうとした。
「今に話すよ。あれだと云う事が確に分ったら」
 そこへ病院の看護婦が「回診です」と注意しに来たので、「あの女」の話はそれなり途切《とぎ》れてしまった。自分は回診の混雑を避けるため、時間が来ると席を外《はず》して廊下へ出たり、貯水桶《ちょすいおけ》のある高いところへ出たりしていたが、その日は手近にある帽を取って、梯子段を下まで降りた。「あの女」がまだどこかにいそうな気がするので、自分は玄関の入口に佇立《たたず》んで四方を見廻した。けれども廊下にも控室にも患者の影はなかった。

        二十

 その夕方の空が風を殺して静まり返った灯《ひ》ともし頃、自分はまた曲りくねった段々を急ぎ足に三沢の室《へや》まで上《のぼ》った。彼は食後と見えて蒲団《ふとん》の上に胡坐《あぐら》をかいて大きくなっていた。
「もう便所へも一人で行くんだ。肴《さかな》も食っている」
 これが彼のその時の自慢であった。
 窓は三《みっ》つ共《とも》明け放ってあった。室が三階で前に目を遮《さえ》ぎるものがないから、空は近くに見えた。その中に燦《きら》めく星も遠慮なく光を増して来た。三沢は団扇《うちわ》を使いながら、「蝙蝠《こうもり》が飛んでやしないか」と云った。看護婦の白い服が窓の傍《そば》まで動いて行って、その胴から上がちょっと窓枠《まどわく》の外へ出た。自分は蝙蝠《こうもり》よりも「あの女」の事が気にかかった。「おい、あの事は解ったか」と聞いて見た。
「やっぱりあの女だ」
 三沢はこう云いながら、ちょっと意味のある眼遣《めづか》いをして自分を見た。自分は「そうか」と答えた。その調子が余り高いという訳なんだろう、三沢は団扇でぱっと自分の顔を煽《あお》いだ。そうして急に持ち交《か》えた柄《え》の方を前へ出して、自分達のいる室の筋向うを指《さ》した。
「あの室へ這入《はい》ったんだ。君の帰った後《あと》で」
 三沢の室は廊下の突き当りで往来の方を向いていた。女の室は同じ廊下の角《かど》で、中庭の方から明りを取るようにできていた。暑いので両方共入り口は明けたまま、障子《しょうじ》は取り払ってあったから、自分のいる所から、団扇の柄で指《さ》し示された部屋の入口は、四半分ほど斜めに見えた。しかしそこには女の寝ている床《とこ》の裾《すそ》が、画《え》の模様のように三角に少し出ているだけであった。
 自分はその蒲団の端《はじ》を見つめてしばらく何も云わなかった。
「潰瘍《かいよう》の劇《はげ》しいんだ。血を吐《は》くんだ」と三沢がまた小さな声で告げた。自分はこの時彼が無理をやると潰瘍になる危険があるから入院したと説明して聞かせた事を思い出した。潰瘍という言葉はその折自分の頭に何らの印象も与えなかったが、今度は妙に恐ろしい響を伝えた。潰瘍の陰に、死という怖いものが潜《ひそ》んでいるかのように。
 しばらくすると、女の部屋で微《かす》かにげえげえという声がした。
「そら吐いている」と三沢が眉《まゆ》をひそめた。やがて看護婦が戸口へ現れた。手に小さな金盥《かなだらい》を持ちながら、草履《ぞうり》を突っかけて、ちょっと我々の方を見たまま出て行った。
「癒《なお》りそうなのかな」
 自分の眼には、今朝《けさ》腮《あご》を胸に押しつけるようにして、じっと腰をかけていた美くしい若い女の顔がありありと見えた。
「どうだかね。ああ嘔《は》くようじゃ」と三沢は答えた。その表情を見ると気の毒というよりむしろ心配そうなある物に囚《とら》えられていた。
「君は本当にあの女を知っているのか」と自分は三沢に聞いた。
「本当に知っている」と三沢は真面目《まじめ》に答えた。
「しかし君は大阪へ来たのが今度始めてじゃないか」と自分は三沢を責めた。
「今度来て今度知ったのだ」と三沢は弁解した。「この病院の名も実はあの女に聞いたのだ。僕はここへ這入《はい》る時から、あの女がことによるとやって来やしないかと心配していた。けれども今朝君の話を聞くまではよもやと思っていた。僕はあの女
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