しゃいと挨拶《あいさつ》に出る下女もなかった。自分は三沢の泊ったという二階の一間《ひとま》に通された。手摺《てすり》の前はすぐ大きな川で、座敷から眺《なが》めていると、大変|涼《すず》しそうに水は流れるが、向《むき》のせいか風は少しも入らなかった。夜《よ》に入《い》って向側に点ぜられる灯火のきらめきも、ただ眼に少しばかりの趣《おもむき》を添えるだけで、涼味という感じにはまるでならなかった。
自分は給仕の女に三沢の事を聞いて始めて知った。彼は二日《ふつか》ここに寝たあげく、三日目に入院したように記憶していたが実はもう一日前の午後に着いて、鞄《かばん》を投げ込んだまま外出して、その晩の十時過に始めて帰って来たのだそうである。着いた時には五六人の伴侶《つれ》がいたが、帰りにはたった一人になっていたと下女は告げた。自分はその五六人の伴侶の何人《なんびと》であるかについて思い悩んだ。しかし想像さえ浮ばなかった。
「酔ってたかい」と自分は下女に聞いて見た。そこは下女も知らなかった。けれども少し経《た》って吐《は》いたから酔っていたんだろうと答えた。
自分はその夜《よ》蚊帳《かや》を釣って貰って早く床《とこ》に這入《はい》った。するとその蚊帳に穴があって、蚊《か》が二三|疋《びき》這入って来た。団扇《うちわ》を動かして、それを払《はら》い退《の》けながら寝ようとすると、隣の室《へや》の話し声が耳についた。客は下女を相手に酒でも呑んでいるらしかった。そうして警部だとかいう事であった。自分は警部の二字に多少の興味があった。それでその人の話を聞いて見る気になったのである。すると自分の室を受持っている下女が上って来て、病院から電話だと知らせた。自分は驚いて起き上った。
電話の相手は三沢の看護婦であった。病人の模様でも急に変ったのかと思って心配しながら用事を聞いて見ると病人から、明日《あした》はなるべく早く来てくれ、退屈で困るからという伝言に過ぎなかった。自分は彼の病気がはたしてそう重くないんだと断定した。「何だそんな事か、そういうわがままはなるべく取次《とりつ》がないが好い」と叱りつけるように云ってやったが、後で看護婦に対して気の毒になったので、「しかし行く事は行くよ。君が来てくれというなら」とつけ足《た》して室へ帰った。
下女はいつ気がついたか、蚊帳の穴を針と糸で塞《ふさ》いでいた。けれどもすでに這入っている蚊はそのままなので、横になるや否や、時々額や鼻の頭の辺《あたり》でぶうんと云う小《ちいさ》い音がした。それでもうとうとと寝た。すると今度は右の方の部屋でする話声で眼が覚《さ》めた。聞いているとやはり男と女の声であった。自分はこっち側《がわ》に客は一人もいないつもりでいたので、ちょっと驚かされた。しかし女が繰返《くりかえ》して、「そんならもう帰して貰いますぜ」というような言葉を二三度用いたので、隣の客が女に送られて茶屋からでも帰って来たのだろうと推察してまた眠りに落ちた。
それからもう一度下女が雨戸を引く音に夢を破られて、最後に起き上ったのが、まだ川の面《おもて》に白い靄《もや》が薄く見える頃だったから、正味《しょうみ》寝たのは何時間にもならなかった。
十五
三沢の氷嚢《ひょうのう》は依然としてその日も胃の上に在《あ》った。
「まだ氷で冷やしているのか」
自分はいささか案外な顔をしてこう聞いた。三沢にはそれが友達|甲斐《がい》もなく響いたのだろう。
「鼻風邪《はなかぜ》じゃあるまいし」と云った。
自分は看護婦の方を向いて、「昨夕《ゆうべ》は御苦労さま」と一口礼を述べた。看護婦は色の蒼《あお》い膨《ふく》れた女であった。顔つきが絵にかいた座頭に好く似ているせいか、普通彼らの着る白い着物がちっとも似合わなかった。岡山のもので、小さい時|膿毒性《のうどくしょう》とかで右の眼を悪くしたんだと、こっちで尋ねもしない事を話した。なるほどこの女の一方の眼には白い雲がいっぱいにかかっていた。
「看護婦さん、こんな病人に優しくしてやると何を云い出すか分らないから、好加減《いいかげん》にしておくがいいよ」
自分は面白半分わざと軽薄な露骨《ろこつ》を云って、看護婦を苦笑《くしょう》させた。すると三沢が突然「おい氷だ」と氷嚢を持ち上げた。
廊下の先で氷を割る音がした時、三沢はまた「おい」と云って自分を呼んだ。
「君には解るまいが、この病気を押していると、きっと潰瘍《かいよう》になるんだ。それが危険だから僕はこうじっとして氷嚢を載《の》せているんだ。ここへ入院したのも、医者が勧めたのでも、宿で周旋して貰ったのでもない。ただ僕自身が必要と認めて自分で入ったのだ。酔興じゃないんだ」
自分は三沢の医学上の智識について、それほど信を置き得なかった。けれどもこう真面目《まじめ》に出られて見ると、もう交《ま》ぜ返《かえ》す勇気もなかった。その上彼のいわゆる潰瘍とはどんなものか全く知らなかった。
自分は起《た》って窓側《まどぎわ》へ行った。そうして強い光に反射して、乾いた土の色を見せている暗《くら》がり峠《とうげ》を望んだ。ふと奈良へでも遊びに行って来《き》ようかという気になった。
「君その様子じゃ当分約束を履行《りこう》する訳にも行かないだろう」
「履行しようと思って、これほどの養生をしているのさ」
三沢はなかなか強情の男であった。彼の強情につき合えば、彼の健康が旅行に堪《た》え得るまで自分はこの暑い都の中で蒸《む》されていなければならなかった。
「だって君の氷嚢はなかなか取れそうにないじゃないか」
「だから早く癒《なお》るさ」
自分は彼とこういう談話を取り換《か》わせているうちに、彼の強情のみならず、彼のわがままな点をよく見て取った。同時に一日も早く病人を見捨てて行こうとする自分のわがままもまたよく自分の眼に映った。
「君大阪へ着いたときはたくさん伴侶《つれ》があったそうじゃないか」
「うん、あの連中と飲んだのが悪かった」
彼の挙げた姓名のうちには、自分の知っているものも二三あった。三沢は彼らと名古屋からいっしょの汽車に乗ったのだが、いずれも馬関とか門司とか福岡とかまで行く人であるにかかわらず久しぶりだからというので、皆《みん》な大阪で降りて三沢と共に飯を食ったのだそうである。
自分はともかくももう二三日いて病人の経過を見た上、どうとかしようと分別《ふんべつ》した。
十六
その間自分は三沢の付添のように、昼も晩も大抵は病院で暮した。孤独な彼は実際毎日自分を待受けているらしかった。それでいて顔を合わすと、けっして礼などは云わなかった。わざわざ草花を買って持って行ってやっても、憤《むっ》と膨《ふく》れている事さえあった。自分は枕元で書物を読んだり、看護婦を相手にしたり、時間が来ると病人に薬を呑《の》ませたりした。朝日が強く差し込む室《へや》なので、看護婦を相手に、寝床《ねどこ》を影の方へ移す手伝もさせられた。
自分はこうしているうちに、毎日午前中に回診する院長を知るようになった。院長は大概黒のモーニングを着て医員と看護婦を一人ずつ随えていた。色の浅黒い鼻筋の通った立派な男で、言葉遣《ことばづか》いや態度にも容貌《ようぼう》の示すごとく品格があった。三沢は院長に会うと、医学上の知識をまるでもっていない自分たちと同じような質問をしていた。「まだ容易に旅行などはできないでしょうか」「潰瘍《かいよう》になると危険でしょうか」「こうやって思い切って入院した方が、今考えて見るとやっぱり得策だったんでしょうか」などと聞くたびに院長は「ええまあそうです」ぐらいな単簡《たんかん》な返答をした。自分は平生解らない術語を使って、他《ひと》を馬鹿にする彼が、院長の前でこう小さくなるのを滑稽《こっけい》に思った。
彼の病気は軽いような重いような変なものであった。宅《うち》へ知らせる事は当人が絶対に不承知であった。院長に聞いて見ると、嘔気《はきけ》が来なければ心配するほどの事もあるまいが、それにしてももう少しは食慾が出るはずだと云って、不思議そうに考え込んでいた。自分は去就《きょしゅう》に迷った。
自分が始めて彼の膳《ぜん》を見たときその上には、生豆腐《なまどうふ》と海苔《のり》と鰹節《かつぶし》の肉汁《ソップ》が載《の》っていた。彼はこれより以上|箸《はし》を着ける事を許されなかったのである。自分はこれでは前途遼遠《ぜんとりょうえん》だと思った。同時にその膳に向って薄い粥《かゆ》を啜《すす》る彼の姿が変に痛ましく見えた。自分が席を外《はず》して、つい近所の洋食屋へ行って支度《したく》をして帰って来ると、彼はきっと「旨《うま》かったか」と聞いた。自分はその顔を見てますます気の毒になった。
「あの家《うち》はこの間君と喧嘩《けんか》した氷菓子《アイスクリーム》を持って来る家だ」
三沢はこういって笑っていた。自分は彼がもう少し健康を回復するまで彼の傍《そば》にいてやりたい気がした。
しかし宿へ帰ると、暑苦しい蚊帳《かや》の中で、早く涼しい田舎《いなか》へ行きたいと思うことが多かった。この間の晩女と話をして人の眠を妨《さまた》げた隣の客はまだ泊っていた。そうして自分の寝ようとする頃に必ず酒気《しゅき》を帯びて帰って来た。ある時は宿で酒を飲んで、芸者を呼べと怒鳴《どな》っていた。それを下女がさまざまにごまかそうとしてしまいには、あの女はあなたの前へ出ればこそ、あんな愛嬌《あいきょう》をいうものの、蔭《かげ》ではあなたの悪口ばかり並べるんだから止《や》めろと忠告していた。すると客は、なにおれの前へ出た時だけ御世辞《おせじ》を云ってくれりゃそれで嬉《うれ》しいんだ、蔭で何と云ったって聞えないから構わないと答えていた。ある時はこれも芸者が何か真面目《まじめ》な話を持ち込んで来たのを、今度は客の方でごまかそうとして、その芸者から他《ひと》の話を「じゃん、じゃか、じゃん」にしてしまうと云って怒られていた。
自分はこんな事で安眠を妨害されて、実際迷惑を感じた。
十七
そんなこんなで好く眠られなかった朝、もう看病は御免蒙《ごめんこうむ》るという気で、病院の方へ橋を渡った。すると病人はまだすやすや眠っていた。
三階の窓から見下《みおろ》すと、狭い通なので、門前の路《みち》が細く綺麗《きれい》に見えた。向側は立派な高塀《たかべい》つづきで、その一つの潜《くぐ》りの外へ主人《あるじ》らしい人が出て、如露《じょうろ》で丹念《たんねん》に往来を濡《ぬ》らしていた。塀の内には夏蜜柑《なつみかん》のような深緑の葉が瓦《かわら》を隠すほど茂っていた。
院内では小使が丁字形《ていじけい》の棒の先へ雑巾《ぞうきん》を括《くく》り付けて廊下をぐんぐん押して歩いた。雑巾をゆすがないので、せっかく拭いた所がかえって白く汚れた。軽い患者はみな洗面所へ出て顔を洗った。看護婦の払塵《はたき》の声がここかしこで聞こえた。自分は枕《まくら》を借りて、三沢の隣の空室《あきべや》へ、昨夕《ゆうべ》の睡眠不足を補いに入った。
その室《へや》も朝日の強く当る向《むき》にあるので、一寝入するとすぐ眼が覚《さ》めた。額や鼻の頭に汗と油が一面に浮き出しているのも不愉快だった。自分はその時岡田から電話口へ呼ばれた。岡田が病院へ電話をかけたのはこれで三度目である。彼はきまりきって、「御病人の御様子はどうです」と聞く。「二三日|中《うち》是非伺います」という。「何でも御用があるなら御遠慮なく」という。最後にきっとお兼さんの事を一口二口つけ加えて、「お兼からもよろしく」とか、「是非お遊びにいらっしゃるように妻《さい》も申しております」とか、「うちの方が忙がしいんで、つい御無沙汰《ごぶさた》をしています」とか云う。
その日も岡田の話はいつもの通りであった。けれども一番しまいに、「今から一週間内……と断定する訳には行かないが、とにかくもう少しすると、あなたをちょ
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