んもまた存在しなくなるのです。
 兄さんは神でも仏《ほとけ》でも何でも自分以外に権威のあるものを建立《こんりゅう》するのが嫌《きら》いなのです。(この建立という言葉も兄さんの使ったままを、私が踏襲《とうしゅう》するのです)。それではニイチェのような自我を主張するのかというとそうでもないのです。
「神は自己だ」と兄さんが云います。兄さんがこう強い断案を下す調子を、知らない人が蔭《かげ》で聞いていると、少し変だと思うかも知れません。兄さんは変だと思われても仕方のないような激した云い方をします。
「じゃ自分が絶対だと主張すると同じ事じゃないか」と私が非難します。兄さんは動きません。
「僕は絶対だ」と云います。
 こういう問答を重《かさ》ねれば重ねるほど、兄さんの調子はますます変になって来ます。調子ばかりではありません、云う事もしだいに尋常を外《はず》れて来ます。相手がもし私のようなものでなかったならば、兄さんは最後まで行かないうちに、純粋な気違として早く葬られ去ったに違ありません。しかし私はそう容易《たやす》く彼を見棄《みす》てるほどに、兄さんを軽んじてはいませんでした。私はとうとう兄さんを底まで押しつめました。
 兄さんの絶対というのは、哲学者の頭から割り出された空《むな》しい紙の上の数字ではなかったのです。自分でその境地《きょうち》に入って親しく経験する事のできる判切《はっきり》した心理的のものだったのです。
 兄さんは純粋に心の落ちつきを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだと云います。一度《ひとたび》この境界《きょうがい》に入れば天地も万有も、すべての対象というものがことごとくなくなって、ただ自分だけが存在するのだと云います。そうしてその時の自分は有るとも無いとも片のつかないものだと云います。偉大なようなまた微細なようなものだと云います。何とも名のつけようのないものだと云います。すなわち絶対だと云います。そうしてその絶対を経験している人が、俄然《がぜん》として半鐘《はんしょう》の音を聞くとすると、その半鐘の音はすなわち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、絶対即相対になるのだというのです、したがって自分以外に物を置き他《ひと》を作って、苦しむ必要がなくなるし、また苦しめられる掛念《けねん》も起らないのだと云うのです。
「根本義《こんぽんぎ》は死んでも生きても同じ事にならなければ、どうしても安心は得られない。すべからく現代を超越すべしといった才人はとにかく、僕は是非共|生死《しょうじ》を超越しなければ駄目だと思う」
 兄さんはほとんど歯を喰いしばる勢《いきおい》でこう言明しました。

        四十五

 私はこの場合にも自分の頭が兄さんに及ばないという事を自白しなければなりません。私は人間として、はたして兄さんのいうような境界に達せられべきものかをまだ考えていなかったのです。明瞭《めいりょう》な順序で自然そこに帰着《きちゃく》して行く兄さんの話を聞いた時、なるほどそんなものかと思いました。またそんなものでも無かろうかとも思いました。何しろ私はとかくの是非を挟《さしは》さむだけの資格をもっていない人間に過ぎませんでした。私は黙々として熱烈な言葉の前に坐《すわ》りました。すると兄さんの態度が変りました。私の沈黙が鋭い兄さんの鉾先《ほこさき》を鈍《にぶ》らせた例は、今までにも何遍かありました。そうしてそれがことごとく偶然から来ているのです。もっとも兄さんのような聡明《そうめい》な人に、一種の思わくから黙って見せるという技巧《ぎこう》を弄《ろう》したら、すぐ観破《かんぱ》されるにきまっていますから、私の鈍《のろ》いのも時には一得《いっとく》になったのでしょう。
「君、僕を単に口舌《こうぜつ》の人と軽蔑《けいべつ》してくれるな」と云った兄さんは、急に私の前に手を突きました。私は挨拶《あいさつ》に窮しました。
「君のような重厚《ちょうこう》な人間から見たら僕はいかにも軽薄なお喋舌《しゃべり》に違ない。しかし僕はこれでも口で云う事を実行したがっているんだ。実行しなければならないと朝晩《あさばん》考え続けに考えているんだ。実行しなければ生きていられないとまで思いつめているんだ」
 私は依然として挨拶に困ったままでした。
「君、僕の考えを間違っていると思うか」と兄さんが聞きました。
「そうは思わない」と私が答えました。
「徹底していないと思うか」と兄さんがまた聞きました。
「根本的《こんぽんてき》のようだ」と私がまた答えました。
「しかしどうしたらこの研究的な僕が、実行的な僕に変化できるだろう。どうぞ教えてくれ」と兄さんが頼むのです。
「僕にそんな力があるものか」と、思いも寄らない私は断るのです。
「いやある。君は実行的に生れた人だ。だから幸福なんだ。そう落ちついていられるんだ」と兄さんが繰り返すのです。
 兄さんは真剣のようでした。私はその時|憮然《ぶぜん》として兄さんに向いました。
「君の智慧《ちえ》は遥《はるか》に僕に優《まさ》っている。僕にはとても君を救う事はできない。僕の力は僕より鈍《のろ》いものになら、あるいは及ぼし得るかも知れない。しかし僕より聡明な君には全く無効である。要するに君は瘠《や》せて丈《たけ》が長く生れた男で、僕は肥えてずんぐり育った人間なんだ。僕の真似をして肥《ふと》ろうと思うなら、君は君の背丈《せい》を縮《ちぢ》めるよりほかに途《みち》はないんだろう」
 兄さんは眼からぽろぽろ涙を出しました。
「僕は明かに絶対の境地を認めている。しかし僕の世界観が明かになればなるほど、絶対は僕と離れてしまう。要するに僕は図《ず》を披《ひら》いて地理を調査する人だったのだ。それでいて脚絆《きゃはん》を着けて山河《さんか》を跋渉《ばっしょう》する実地の人と、同じ経験をしようと焦慮《あせ》り抜いているのだ。僕は迂濶《うかつ》なのだ。僕は矛盾なのだ。しかし迂濶と知り矛盾と知りながら、依然としてもがいている。僕は馬鹿だ。人間としての君は遥に僕よりも偉大だ」
 兄さんはまた私の前に手を突きました。そうしてあたかも謝罪でもする時のように頭を下げました。涙がぽたりぽたりと兄さんの眼から落ちました。私は恐縮しました。

        四十六

 箱根を出る時兄さんは「二度とこんな所は御免《ごめん》だ」と云いました。今まで通って来たうちで、兄さんの気に入った所はまだ一カ所もありません。兄さんは誰とどこへ行っても直《すぐ》厭《いや》になる人なのでしょう。それもそのはずです。兄さんには自分の身躯《からだ》や自分の心からしてがすでに気に入っていないのですから。兄さんは自分の身躯や心が自分を裏切《うらぎ》る曲者《くせもの》のように云います。それが徒爾《いたずら》半分の出放題《でほうだい》でない事は、今日《きょう》までいっしょに寝泊《ねとま》りの日数《ひかず》を重ねた私にはよく理解できます。その私からありのままの報知を受けるあなたにもとくと御合点《ごがてん》が行く事だろうと思います。
 こういう兄さんと、私がよくいっしょに旅ができると御思いになるかも知れません。私にも考えると、それが不思議なくらいです。兄さんを上《かみ》に述べたように頭の中へ畳み込んだが最後、いかに遅鈍《ちどん》な私だって、御相手はでき悪《にく》い訳です。しかし事実私は今兄さんとこうして差向いで暮していながら、さほどに苦痛を感じてはいないのです。少くとも傍《はた》で想像するよりはよほど楽なのだろうと考えています。そうしてそれをなぜだと聞かれたら、ちょっと返答に差支《さしつか》えるのです。あなたも同じ兄さんについて同じ経験をなさりはしませんか。もし同じ経験をなさらないならば、骨肉を分けたあなたよりも、他人の私の方が、兄さんに親しい性質をもって生れて来たのでしょう。親しいというのは、ただ仲が好いと云う意味ではありません。和《わ》して納《おさ》まるべき特性をどこか相互に分担《ぶんたん》して前へ進めるというつもりなのです。
 私は旅へ出てから絶えず兄さんの気に障《さわ》るような事を云ったりしたりしました。ある時は頭さえ打《ぶ》たれました。それでも私はあなたの家庭のすべての人の前に立って、私はまだ兄さんから愛想を尽かされていないという事を明言できると思います。同時に、一種の弱点を持ったこの兄さんを、私は今でも衷心《ちゅうしん》から敬愛していると固く信じて疑わないのであります。
 兄さんは私のような凡庸《ぼんよう》な者の前に、頭を下げて涙を流すほどの正しい人です。それをあえてするほどの勇気をもった人です。それをあえてするのが当然だと判断するだけの識見を具《そな》えた人です。兄さんの頭は明か過ぎて、ややともすると自分を置き去りにして先へ行きたがります。心の他《ほか》の道具が彼の理智と歩調を一つにして前へ進めないところに、兄さんの苦痛があるのです。人格から云えばそこに隙間《すきま》があるのです。成功から云えばそこに破滅が潜《ひそ》んでいるのです。この不調和を兄さんのために悲しみつつある私は、すべての原因をあまりに働き過ぎる彼の理智の罪に帰《き》しながら、やっぱり、その理智に対する敬意を失う事ができないのです。兄さんをただの気むずかしい人、ただのわがままな人とばかり解釈していては、いつまで経《た》っても兄さんに近寄る機会は来ないかも知れません。したがって少しでも兄さんの苦痛を柔《やわら》げる縁は、永劫《えいごう》に去ったものと見なければなりますまい。
 我々は前《ぜん》申した通り箱根を立ちました。そうして直《すぐ》にこの紅《べに》が谷《やつ》の小別荘に入りました。私はその前ちょっと国府津《こうづ》に泊って見るつもりで、暗《あん》に一人《ひとり》ぎめのプログラムを立てていたのですが、とうとう兄さんにはそれを云い出さずにしまったのです。国府津でもまた「二度とこんな所は御免《ごめん》だ」と怒られそうでしたから。その上兄さんは私からこの別荘の話を聞いて、しきりにそこへ落ちつきたがっていたのです。

        四十七

 何にでも刺戟《しげき》されやすい癖に、どんな刺戟にも堪《た》え切れないと云った風の、今の兄さんには、草庵《そうあん》めいたこの別荘が最も適していたのかも知れません。兄さんは物静かな座敷から、谷一つ隔てて向うの崖《がけ》の高い松を見上げた時、「好いな」と云ってそこへ腰をおろしました。
「あの松も君の所有だ」
 私は慰めるような句調で、わざと兄さんの口吻《こうふん》を真似て見せました。修善寺ではとんと解らなかった「あの百合《ゆり》は僕の所有だ」とか、「あの山も谷も僕の所有だ」とか云った兄さんの言葉を想《おも》い出したからです。
 別荘には留守番《るすばん》の爺《じい》さんが一人いましたが、これは我々と出違《でちがい》に自分の宅《うち》へ帰りました。それでも拭掃除《ふきそうじ》のためや水を汲むために朝夕《あさゆう》一度ぐらいずつは必ず来てくれます。男二人の事ですから、煮炊《にたき》は無論できません。我々は爺さんに頼んで近所の宿屋から三度三度食事を運んで貰う事にしました。夜は電灯の設備がありますから、洋灯《ランプ》を点《とも》す手数《てかず》は要《い》らないのです。こういう訳で、朝起きてから夜寝るまでに、我々の是非やらなければならない事は、まあ床を延べて蚊帳《かや》を釣るくらいなものです。
「自炊よりも気楽で閑静だね」と兄さんが云います。実際今まで通って来た山や海のうちで、ここが一番|静《しずか》に違ないのです。兄さんと差向いで黙っていると、風の音さえ聞こえない事があります。多少やかましいと思うのは珊瑚樹《さんごじゅ》の葉隠れにぎいぎい軋《きし》る隣の車井戸《くるまいど》の響ですが、兄さんは案外それには無頓着《むとんじゃく》です。兄さんはだんだん落ちついて来るようです。私はもっと早く兄さんをここへ連れて来れば好かったと思いました。
 庭先に少しばかりの
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