せん。私は何でこの空漠《くうばく》な響をもつ偽という字のために、兄さんがそれほど興奮するかを不審がりました。兄さんは私が偽という言葉を字引で知っているだけだから、そんな迂濶《うかつ》な不審を起すのだと云って、実際に遠い私を窘《たし》なめました。兄さんから見れば、私は実際に遠い人間なのです。私は強《し》いて兄さんから偽の内容を聞こうともしませんでした。したがって兄さんの家庭にはどんな面倒な事情が縺《もつ》れ合っているか、私にはとんと解りません。好んで聞くべき筋でもなし、また聞いておかないでも、家庭の一員たるあなたには報道の必要のない事と思いましたから、そのままにしてすましました。ただ御参考までに一言《いちごん》注意しておきますが、兄さんはその時御両親や奥さんについて、抽象的ながら云々《うんぬん》されたにかかわらず、あなたに関しては、二郎という名前さえ口にされませんでした。それからお重さんとかいう妹さんの事についても何にも云われませんでした。

        三十八

 私が兄さんにマラルメの話をしたのは修善寺《しゅぜんじ》を立って小田原へ来た晩の事です。専門の違うあなただから、あるいは失礼にもなるまいと思って書き添えますが、マラルメと云うのは有名な仏蘭西《フランス》の詩人の名前です。こういう私も実はその名前だけしか知らないのです。だから話と云ったところで作物《さくぶつ》の批評などではありません。東京を立つ前に、取りつけの外国雑誌の封を切って、ちょっと眼を通したら、そのうちにこの詩人の逸話があったのを、面白いと思って覚えていたので、私はついそれを挙げて、兄さんの反省を促《うなが》して見たくなったのです。
 このマラルメと云う人にも多くの若い崇拝者がありました。その人達はよく彼の家に集まって、彼の談話に耳を傾ける宵《よい》を更《ふか》したのですが、いかに多くの人が押しかけても、彼の坐《すわ》るべき場所は必ず暖炉《だんろ》の傍《そば》で、彼の腰をおろすのは必ず一箇の揺椅《ゆりいす》ときまっていました。これは長い習慣で定《さだ》められた規則のように、誰も犯すものがなかったという事です。ところがある晩新しい客が来ました。たしか英吉利《イギリス》のシモンズだったという話ですが、その客は今日《こんにち》までの習慣をまるで知らないので、どの席もどの椅子《いす》も同じ価《あたい》と心得たのでしょう、当然マラルメの坐るべきかの特別の椅子へ腰をかけてしまいました。マラルメは不安になりました。いつものように話に実《み》が入りませんでした。一座は白けました。
「何という窮屈な事だろう」
 私はマラルメの話をした後《あと》で、こういう一句の断案を下しました。そうして兄さんに向って、「君の窮屈な程度はマラルメよりも烈《はげ》しい」と云いました。
 兄さんは鋭敏な人です。美的にも倫理的にも、智的にも鋭敏過ぎて、つまり自分を苦しめに生れて来たような結果に陥《おちい》っています。兄さんには甲でも乙でも構わないという鈍《どん》なところがありません。必ず甲か乙かのどっちかでなくては承知できないのです。しかもその甲なら甲の形なり程度なり色合《いろあい》なりが、ぴたりと兄さんの思う坪に嵌《はま》らなければ肯《うけ》がわないのです。兄さんは自分が鋭敏なだけに、自分のこうと思った針金のように際《きわ》どい線の上を渡って生活の歩《ほ》を進めて行きます。その代り相手も同じ際どい針金の上を、踏み外《はず》さずに進んで来てくれなければ我慢しないのです。しかしこれが兄さんのわがままから来ると思うと間違いです。兄さんの予期通りに兄さんに向って働きかける世の中を想像して見ると、それは今の世の中より遥《はるか》に進んだものでなければなりません。したがって兄さんは美的にも智的にも乃至《ないし》倫理的にも自分ほど進んでいない世の中を忌《い》むのです。だからただのわがままとは違うでしょう。椅子を失って不安になったマラルメの窮屈ではありますまい。
 しかし苦しいのはあるいはそれ以上かも知れません。私はどうかしてその苦《くるし》みから兄さんを救い出したいと念じているのです。兄さんも自分でその苦しみに堪《た》え切れないで、水に溺《おぼ》れかかった人のように、ひたすら藻掻《もが》いているのです。私には心のなかのその争いがよく見えます。しかし天賦《てんぷ》の能力と教養の工夫とでようやく鋭くなった兄さんの眼を、ただ落ちつきを与える目的のために、再び昧《くら》くしなければならないという事が、人生の上においてどんな意義になるでしょうか。よし意義があるにしたところで、人間としてできうる仕事でしょうか。
 私はよく知っていました。考えて考えて考え抜いた兄さんの頭には、血と涙で書かれた宗教の二字が、最後の手段として、躍《おど》り叫んでいる事を知っていました。

        三十九

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
 兄さんははたしてこう云い出しました。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赴《おもむ》く人のように見えました。
「しかし宗教にはどうも這入《はい》れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君|正気《しょうき》なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。僕は怖《こわ》くてたまらない」
 兄さんは立って縁側《えんがわ》へ出ました。そこから見える海を手摺《てすり》に倚《よ》ってしばらく眺めていました。それから室《へや》の前を二三度行ったり来たりした後《あと》、また元の所へ帰って来ました。
「椅子ぐらい失って心の平和を乱されるマラルメは幸いなものだ。僕はもうたいていなものを失っている。わずかに自己の所有として残っているこの肉体さえ、(この手や足さえ、)遠慮なく僕を裏切るくらいだから」
 兄さんのこの言葉は、好い加減な形容ではないのです。昔から内省の力に勝っていた兄さんは、あまり考えた結果として、今はこの力の威圧に苦しみ出しているのです。兄さんは自分の心がどんな状態にあろうとも、一応それを振り返って吟味した上でないと、けっして前へ進めなくなっています。だから兄さんの命の流れは、刹那《せつな》刹那にぽつぽつと中断されるのです。食事中一分ごとに電話口へ呼び出されるのと同じ事で、苦しいに違《ちがい》ありません。しかし中断するのも兄さんの心なら、中断されるのも兄さんの心ですから、兄さんはつまるところ二つの心に支配されていて、その二つの心が嫁《よめ》と姑《しゅうと》のように朝から晩まで責めたり、責められたりしているために、寸時の安心も得られないのです。
 私は兄さんの話を聞いて、始めて何も考えていない人の顔が一番|気高《けだか》いと云った兄さんの心を理解する事ができました。兄さんがこの判断に到着したのは、全く考えた御蔭《おかげ》です。しかし考えた御蔭でこの境界《きょうがい》には這入れないのです。兄さんは幸福になりたいと思って、ただ幸福の研究ばかりしたのです。ところがいくら研究を積んでも、幸福は依然として対岸にあったのです。
 私はとうとう兄さんの前に神という言葉を持ち出しました。そうして意外にも突然兄さんから頭を打たれました。しかしこれは小田原で起った最後の幕です。頭を打たれる前にまだ一節《いっせつ》ありますから、まずそれから御報知しようと思います。しかし前にも申した通り、あなたと私とはまるで専門が違いますので、私の筆にする事が、時によると変に物識《ものしり》めいた余計《よけい》な云《い》い草《ぐさ》のように、あなたの眼に映るかも知れません。それであなたに関係のない片仮名などを入れる時は、なおさら躊躇《ちゅうちょ》しがちになりますが、これでも必要と認めない限り、なるべくそんな性質《たち》の文字は、省《はぶ》いているのですから、あなたもそのつもりで虚心に読んで下さい。少しでもあなたの心に軽薄という疑念が起るようでは、せっかく書いて上げたものが、前後を通じて、何の役にも立たなくなる恐れがありますから。
 私がまだ学校にいた時分、モハメッドについて伝えられた下《しも》のような物語を、何かの書物で読んだ事があります。モハメッドは向うに見える大きな山を、自分の足元へ呼び寄せて見せるというのだそうです。それを見たいものは何月何日を期してどこへ集まれというのだそうです。

        四十

 期日になって幾多の群衆が彼の周囲を取巻いた時、モハメッドは約束通り大きな声を出して、向うの山にこっちへ来いと命令しました。ところが山は少しも動き出しません。モハメッドは澄ましたもので、また同じ号令をかけました。それでも山は依然としてじっとしていました。モハメッドはとうとう三度号令を繰返《くりかえ》さなければならなくなりました。しかし三度云っても、動く気色《けしき》の見えない山を眺めた時、彼は群衆に向って云いました。――「約束通り自分は山を呼び寄せた。しかし山の方では来たくないようである。山が来てくれない以上は、自分が行くよりほかに仕方があるまい」。彼はそう云って、すたすた山の方へ歩いて行ったそうです。
 この話を読んだ当時の私はまだ若うございました。私はいい滑稽《こっけい》の材料を得たつもりで、それを方々へ持って廻りました。するとそのうちに一人の先輩がありました。みんなが笑うのに、その先輩だけは「ああ結構な話だ。宗教の本義はそこにある。それで尽《つく》している」と云いました。私は解らぬながらも、その言葉に耳を傾けました。私が小田原で兄さんに同じ話を繰返したのは、それから何年目になりますか、話は同じ話でも、もう滑稽《こっけい》のためではなかったのです。
「なぜ山の方へ歩いて行かない」
 私が兄さんにこう云っても、兄さんは黙っています。私は兄さんに私の主意が徹しないのを恐れて、つけ足《た》しました。
「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団太《じだんだ》を踏んで口惜《くや》しがる男だ。そうして山を悪く批判する事だけを考える男だ。なぜ山の方へ歩いて行かない」
「もし向うがこっちへ来るべき義務があったらどうだ」と兄さんが云います。
「向うに義務があろうとあるまいと、こっちに必要があればこっちで行くだけの事だ」と私が答えます。
「義務のないところに必要のあるはずがない」と兄さんが主張します。
「じゃ幸福のために行くさ。必要のために行きたくないなら」と私がまた答えます。
 兄さんはこれでまた黙りました。私のいう意味はよく兄さんに解っているのです。けれども是非、善悪、美醜の区別において、自分の今日《こんにち》までに養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲《なげう》って、幸福を求める気になれないのです。むしろそれにぶら下《さ》がりながら、幸福を得ようと焦燥《あせ》るのです。そうしてその矛盾も兄さんにはよく呑《の》み込めているのです。
「自分を生活の心棒《しんぼう》と思わないで、綺麗《きれい》に投げ出したら、もっと楽《らく》になれるよ」と私がまた兄さんに云いました。
「じゃ何を心棒にして生きて行くんだ」と兄さんが聞きました。
「神さ」と私が答えました。
「神とは何だ」と兄さんがまた聞きました。
 私はここでちょっと自白しなければなりません。私と兄さんとこう問答をしているところを御読みになるあなたには、私がさも宗教家らしく映ずるかも知れませんが、――私がどうかして兄さんを信仰の道に引き入れようと力《つと》めているように見えるかも知れませんが、実を云うと、私は耶蘇《ヤソ》にもモハメッドにも縁のない、平凡なただの人間に過ぎないのです。宗教というものをそれほど必要とも思わないで、漫然と育った自然の野人なのです。話がとかくそちらへ向くのは、全く相手に兄さんという烈《はげ》しい煩悶家《はんもんか》を控えているためだったのです。

        四十一

 
前へ 次へ
全52ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング