していました。兄さんは突然|足下《あしもと》にある小石を取って二三間|波打際《なみうちぎわ》の方に馳《か》け出しました。そうしてそれを遥《はるか》の海の中へ投げ込みました。海は静かにその小石を受け取りました。兄さんは手応《てごたえ》のない努力に、憤《いきどお》りを起す人のように、二度も三度も同じ所作《しょさ》を繰返しました。兄さんは磯《いそ》へ打ち上げられた昆布《こぶ》だか若布《わかめ》だか、名も知れない海藻《かいそう》の間を構わず駈《か》け廻りました。それからまた私の立って見ている所へ帰って来ました。
「僕は死んだ神より生きた人間の方が好きだ」
兄さんはこう云うのです。そうして苦しそうに呼息《いき》をはずませていました。私は兄さんを連れて、またそろそろ宿の方へ引き返しました。
「車夫でも、立ん坊でも、泥棒でも、僕がありがたいと思う刹那《せつな》の顔、すなわち神じゃないか。山でも川でも海でも、僕が崇高だと感ずる瞬間の自然、取りも直さず神じゃないか。そのほかにどんな神がある」
兄さんからこう論じかけられた私は、ただ「なるほど」と答えるだけでした。兄さんはその時は物足りない顔をします。しかし後《あと》になるとやっぱり私に感心したような素振《そぶり》を見せます。実を云うと、私の方が兄さんにやり込められて感心するだけなのですが。
三十五
我々は沼津で二日ほど暮しました。ついでに興津《おきつ》まで行こうかと相談した時、兄さんは厭《いや》だと云いました。旅程にかけては、万事私の思いのままになっている兄さんが、なぜその時に限って断然私の申《もう》し出《いで》を拒絶したものか、私にはとんと解りませんでした。後でその説明を聞いたら、三保《みほ》の松原《まつばら》だの天女《てんにょ》の羽衣《はごろも》だのが出て来る所は嫌《きら》いだと云うのです。兄さんは妙な頭をもった人に違《ちがい》ありません。
我々はついに三島《みしま》まで引き返しました。そこで大仁《おおひと》行の汽車に乗り換えて、とうとう修善寺《しゅぜんじ》へ行きました。兄さんには始めからこの温泉が大変気に入っていたようです。しかし肝心《かんじん》の目的地へ着くや否や、兄さんは「おやおや」という失望の声を放ちました。実際兄さんの好いていたのは、修善寺という名前で、修善寺という所ではなかったのです。瑣事《さじ》ですが、これも幾分か兄さんの特色になりますからついでにつけ加えておきます。
御承知の通りこの温泉場は、山と山が抱合っている隙間《すきま》から谷底へ陥落したような低い町にあります。一旦《いったん》そこへ這入《はい》った者は、どっちを見ても青い壁で鼻が支《つか》えるので、仕方なしに上を見上げなければなりません。俯向《うつむ》いて歩いたら、地面の色さえ碌《ろく》に眼には留まらないくらい狭苦しいのです。今まで海よりも山の方が好いと云っていた兄さんは、修善寺へ来て山に取り囲まれるが早いか、急に窮屈がり出しました。私はすぐ兄さんを伴《つ》れて、表へ出て見ました。すると、普通の町ならまず往来に当る所が、一面の川床《かわどこ》で、青い水が岩に打《ぶ》つかりながらその中を流れているのです。だから歩くと云っても、歩きたいだけ歩く余地は無論ありませんでした。私は川の真中《まんなか》の岩の間から出る温泉に兄さんを誘い込みました。男も女もごちゃごちゃに一つ所《とこ》に浸《つか》っているのが面白かったからです。不潔な事も話の種になるくらいでした。兄さんと私はさすがにそこへ浴衣《ゆかた》を投げ棄《す》てて這入《はい》る勇気はありませんでした。しかし湯の中にいる黒い人間を、岩の上に立って物好《ものずき》らしくいつまでも眺めていました。兄さんは嬉《うれ》しそうでした。岩から岸に渡した危ない板を踏みながら元の路へ引き返す時に、兄さんは「善男善女《ぜんなんぜんにょ》」という言葉を使いました。それが雑談《じょうだん》半分の形容詞でなく、全くそう思われたらしいのです。
翌朝《あくるあさ》楊枝《ようじ》を銜《くわ》えながら、いっしょに内風呂に浸った時、兄さんは「昨夕《ゆうべ》も寝られないで困った」と云いました。私は今の兄さんに取って寝られないが一番毒だと考えていましたので、ついそれを問題にしました。
「寝られないと、どうかして寝よう寝ようと焦《あせ》るだろう」と私が聞きました。
「全くそうだ、だからなお寝られなくなる」と兄さんが答えました。
「君、寝なければ誰かにすまない事でもあるのか」と私がまた聞きました。
兄さんは変な顔をしました。石で畳んだ風呂槽《ふろおけ》の縁《ふち》に腰をかけて、自分の手や腹を眺めていました。兄さんは御存じの通り余り肥《ふと》ってはいません。
「僕も時々寝られない事があるが、寝られないのもまた愉快なものだ」と私が云いました。
「どうして」と今度は兄さんが聞きました。私はその時私の覚えていた灯影無睡《とうえいむすい》を照《てら》し心清妙香《しんせいみょうこう》を聞《き》くという古人の句を兄さんのために挙《あ》げました。すると兄さんはたちまち私の顔を見てにやにや笑いました。
「君のような男にそういう趣《おもむき》が解るかね」と云って、不審そうな様子をしました。
三十六
その日私はまた兄さんを引張《ひっぱ》り出して今度は山へ行きました。上を見て山に行き、下を向いて湯に入る、それよりほかにする事はまずない所なのですから。
兄さんは痩《や》せた足を鞭《むち》のように使って細い道を達者に歩きます。その代り疲れる事もまた人一倍早いようです。肥った私がのそのそ後《あと》から上《あが》って行くと、木の根に腰をかけて、せえせえ云っています。兄さんのは他《ひと》を待ち合せるのではありません。自分が呼息《いき》を切らしてやむをえずに斃《たお》れるのです。
兄さんは時々立ち留まって茂みの中に咲いている百合《ゆり》を眺めました。一度などは白い花片《はなびら》をとくに指して、「あれは僕の所有だ」と断りました。私にはそれが何の意味だか解りませんでしたが、別に聞き返す気も起らずに、とうとう天辺《てっぺん》まで上《のぼ》りました。二人でそこにある茶屋に休んだ時、兄さんはまた足の下に見える森だの谷だのを指《さ》して、「あれらもことごとく僕の所有だ」と云いました。二度まで繰り返されたこの言葉で、私は始めて不審を起しました。しかしその不審はその場ですぐ晴らす訳に行きませんでした。私の質問に対する兄さんの答は、ただ淋《さび》しい笑に過ぎなかったのです。
我々はその茶店の床几《しょうぎ》の上で、しばらく死んだように寝ていました。その間兄さんは何を考えていたか知りません。私はただ明らかな空を流れる白い雲の様子ばかり見ていました。私の眼はきらきらしました。しだいに帰《かえ》り途《みち》の暑さが想《おも》いやられるようになりました。私は兄さんを促《うなが》してまた山を下りました。その時です。兄さんが突然|後《うしろ》から私の肩をつかんで、「君の心と僕の心とはいったいどこまで通じていて、どこから離れているのだろう」と聞いたのは。私は立ちどまると同時に、左の肩を二三度強く小突き廻されました。私は身体《からだ》に感ずる動揺を、同じように心でも感じました。私は平生から兄さんを思索家と考えていました。いっしょに旅に出てからは、宗教に這入《はい》ろうと思って這入口《はいりくち》が分らないで困っている人のようにも解釈して見ました。私が心に動揺を感じたというのは、はたして兄さんのこの質問が、そういう立場から出たのであろうかと迷ったからです。私はあまり物に頓着《とんじゃく》しない性質《たち》です。またあまり物に驚かない、いたって鈍《どん》な男です。けれども出立|前《ぜん》あなたからいろいろ依頼を受けたため、兄さんに対してだけは、妙に鋭敏になりたがっていました。私は少し平気の道を踏み外《はず》しそうになりました。
「〔Keine Bru:cke fu:hrt von Mensch zu Mensch.〕(人から人へ掛け渡す橋はない)」
私はつい覚えていた独逸《ドイツ》の諺《ことわざ》を返事に使いました。無論半分は問題を面倒にしない故意《こい》の作略《さりゃく》も交《まじ》っていたでしょうが。すると兄さんは、「そうだろう、今の君はそうよりほかに答えられまい」と云うのです。私はすぐ「なぜ」と聞き返しました。
「自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実であり得ない」
私は兄さんのこの言葉を、自分のどこへ応用して好いか気がつきませんでした。
「君は僕のお守《もり》になって、わざわざいっしょに旅行しているんじゃないか。僕は君の好意を感謝する。けれどもそういう動機から出る君の言動は、誠《まこと》を装《よそお》う偽《いつわ》りに過ぎないと思う。朋友《ほうゆう》としての僕は君から離れるだけだ」
兄さんはこう断言しました。そうして私をそこへ取残したまま、一人でどんどん山道を馳《か》け下りて行きました。その時私も兄さんの口を迸《ほとば》しる Einsamkeit, du meine Heimat Einsamkeit !(孤独なるものよ、汝はわが住居《すまい》なり)という独逸語を聞きました。
三十七
私は心配しいしい宿へ帰りました。兄さんは室《へや》の真ん中に蒼《あお》い顔をして寝ていました。私の姿を見ても口を利《き》きません、動きもしません。私は自然を尊《たっと》む人を、自然のままにしておく方針を取りました。私は静かに兄さんの枕元で一服しました。それから気持の悪い汗を流すために手拭《てぬぐい》を持って風呂場へ行きました。私が湯槽《ゆおけ》の縁《ふち》に立って身体《からだ》を清めていると、兄さんが後《あと》からやって来ました。二人はその時始めて物を云い合いました。私は「疲れたろう」と聞きました。兄さんは「疲れた」と答えました。
午《ひる》の膳《ぜん》に向う頃から兄さんの機嫌《きげん》はだんだん回復して来ました。私はついに兄さんに向って、先刻《さっき》山途《やまみち》で二人の間に起った芝居がかりの動作に云い及びました。兄さんは始めのうちは苦笑していました。しかししまいには居住居《いずまい》を直して真面目《まじめ》になりました。そうして実際孤独の感に堪《た》えないのだと云い張りました。私はその時始めて兄さんの口から、彼がただに社会に立ってのみならず、家庭にあっても一様に孤独であるという痛ましい自白を聞かされました。兄さんは親しい私に対して疑念を持っている以上に、その家庭の誰彼を疑《うたぐ》っているようでした。兄さんの眼には御父さんも御母さんも偽《いつわり》の器《うつわ》なのです。細君はことにそう見えるらしいのです。兄さんはその細君の頭にこの間手を加えたと云いました。
「一度|打《ぶ》っても落ちついている。二度打っても落ちついている。三度目には抵抗するだろうと思ったが、やっぱり逆《さか》らわない。僕が打てば打つほど向《むこう》はレデーらしくなる。そのために僕はますます無頼漢《ごろつき》扱いにされなくてはすまなくなる。僕は自分の人格の堕落を証明するために、怒《いかり》を小羊の上に洩《も》らすと同じ事だ。夫の怒《いかり》を利用して、自分の優越に誇ろうとする相手は残酷じゃないか。君、女は腕力に訴える男より遥《はるか》に残酷なものだよ。僕はなぜ女が僕に打《ぶ》たれた時、起《た》って抵抗してくれなかったと思う。抵抗しないでも好いから、なぜ一言《ひとこと》でも云い争ってくれなかったと思う」
こういう兄さんの顔は苦痛に充《み》ちていました。不思議な事に兄さんはこれほど鮮明に自分が細君に対する不快な動作を話しておきながら、その動作をあえてするに至った原因については、具体的にほとんど何事も語らないのです。兄さんはただ自分の周囲が偽で成立していると云います。しかもその偽を私の眼の前で組み立てて見せようとはしま
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