ってならなかった。
「いったい先方ではどういうんだ。君は僕ばかり責めるがね、僕には向うの意志が少しも解らないじゃないか」
「解るはずがないよ。まだ何にも話してないんだもの」
 三沢は少し激していた。そうして激するのがもっともであった。彼は女の父兄にも女自身にも、自分の事をまだ一口も告げていなかった。どう間違っても彼らの体面に障《さわ》りようのない事情の下《もと》に、女と自分を御互の視線の通う範囲内に置いただけであった。彼の処置には少しも人工的な痕迹《こんせき》を留《とど》めない、ほとんど自然そのままの利用に過ぎないというのが彼の大いなる誇りであった。
「君の考えが纏《まと》まらない以上はどうする事もできないよ」
「じゃもう少し考えて見よう」
 三沢は焦慮《じれっ》たそうであった。自分も自分が不愉快であった。
 Hさんと兄がいっしょの汽車で東京を去ったのは、自分が三沢の所へ出かけてから、一週間と経《た》たないうちであった。自分は彼らの立つ時刻も日限も知らずにいた。三沢からもHさんからも何の通知を受取らなかった自分は、家《うち》からの電話で始めてそれを聞いた。その時電話口へは思いがけなく嫂《あによめ》が出て来た。
「兄さんは今朝お立ちよ。お父さんがあなたへ知らせておけとおっしゃるから、ちょっと御呼び申しました」
 嫂の言葉は少し改まっていた。
「Hさんといっしょなんでしょうね」
「ええ」
「どこへ行ったんですか」
「何でも伊豆《いず》の海岸を廻るとかいう御話しでした」
「じゃ船ですか」
「いいえやっぱり新橋から……」

        二十五

 その日自分は下宿へ帰らずに、事務所からすぐ番町へ廻った。昨日《きのう》まで恐れて近寄らなかったのに、兄の出立と聞くや否や、すぐそちらへ足を向けるのだから、自分の行為はあまりに現金過ぎた。けれども自分はそれを隠す気もなかった。隠さなければすまない人は、宅《うち》に一人もいないように思われた。
 茶の間には嫂《あによめ》が雑誌の口絵を見ていた。
「今朝ほどは失礼」
「おや吃驚《びっくり》したわ、誰かと思ったら、二郎さん。今京橋から御帰り?」
「ええ、暑くなりましたね」
 自分は手帛《ハンケチ》を出して顔を拭《ふ》いた。それから上着を脱《ぬ》いで畳の上へ放《ほう》り出した。嫂は団扇《うちわ》を取ってくれた。
「御父さんは?」
「御父さんは御留守よ。今日は築地《つきじ》で何かあるんですって」
「精養軒?」
「じゃないでしょう。多分ほかの御茶屋だと思うんだけれども」
「お母さんは?」
「お母さんは今御風呂」
「お重は?」
「お重さんも……」
 嫂はとうとう笑いかけた。
「風呂ですか」
「いいえ、いないの」
 下女が来て氷の中へ莓《いちご》を入れるかレモンを入れるかと尋ねた。
「宅じゃもう氷を取るんですか」
「ええ二三日《にさんち》前から冷蔵庫を使っているのよ」
 気のせいか嫂はこの前見た時よりも少し窶《やつ》れていた。頬の肉が心持減ったらしかった。それが夕方の光線の具合で、顔を動かす時に、ちらりちらりと自分の眼を掠《かす》めた。彼女は左の頬を縁側《えんがわ》に向けて坐っていたのである。
「兄さんはそれでもよく思い切って旅に出かけましたね。僕はことによると今度《こんだ》もまた延ばすかも知れないと思ってたんだが」
「延ばしゃなさらないわよ」
 嫂《あによめ》はこういう時に下を向いた。そうしていつもよりも一層落ちついた沈んだ低い声を出した。
「そりゃ兄さんは義理堅いから、Hさんと約束した以上、それを実行するつもりだったには違ないけれども……」
「そんな意味じゃないのよ。そんな意味じゃなくって、そうして延ばさないのよ」
 自分はぽかんとして彼女の顔を見た。
「じゃどんな意味で延ばさないんです」
「どんな意味って、――解ってるじゃありませんか」
 自分には解らなかった。
「僕には解らない」
「兄さんは妾《あたし》に愛想を尽かしているのよ」
「愛想づかしに旅行したというんですか」
「いいえ、愛想を尽かしてしまったから、それで旅行に出かけたというのよ。つまり妾を妻と思っていらっしゃらないのよ」
「だから……」
「だから妾の事なんかどうでも構わないのよ。だから旅に出かけたのよ」
 嫂はこれで黙ってしまった。自分も何とも云わなかった。そこへ母が風呂から上《あが》って来た。
「おやいつ来たの」
 母は二人坐っているところを見て厭《いや》な顔をした。

        二十六

「もう好い加減に芳江を起さないとまた晩に寝ないで困るよ」
 嫂は黙って起《た》った。
「起きたらすぐ湯に入れておやんなさいよ」
「ええ」
 彼女の後姿《うしろすがた》は廊下を曲《まが》って消えた。
「芳江は昼寝《ひるね》ですか、どうれで静《しずか》だと思った」
「先刻《さっき》何だか拗《す》ねて泣いてたら、それっきり寝ちまったんだよ。何ぼなんでも、もう五時だから、好い加減に起してやらなくっちゃ……」
 母は不平らしい顔をしていた。
 自分はその日珍しく宅《うち》の食卓に向って、晩餐《ばんさん》の箸《はし》を取った。築地の料理屋か待合へ呼ばれたという父は、無論帰らなかったけれども、お重は予定通り戻って来た。
「おい早く来て坐らないか。みんな御前の湯から上《あが》るのを待ってたんだ」
 お重は縁側へぺたりと尻《しり》を着けて団扇《うちわ》で浴衣《ゆかた》の胸へ風を入れていた。
「そんなに急《せ》き立てなくったってよかないの。たまに来たお客さまの癖に」
 お重はつんとしてわざと鼻の先の八つ手の方を向いていた。母はまた始まったという笑の裡《うち》に自分を見た。自分はまた調戯《からかい》たくなった。
「御客さまだと思うなら、そんな大きなお尻を向けないで、早くここへ来てお坐りよ」
「蒼蠅《うるさ》いわよ」
「いったいこの暑いのに、一人でどこをほっつき歩いてたんだい」
「どこでも余計な御世話よ。ほっつき歩くだなんて、第一《だいち》言葉使からしてあなたは下品よ。――好いわ、今日坂田さんの所へ行って、兄さんの秘密をすっかり聞いて来たから」
 お重は兄の事を大兄さん、自分の事をただ兄さんと呼んでいた。始めはちい[#「ちい」に傍点]兄さんと云ったのだが、そのちい[#「ちい」に傍点]を聞くたびに妙な不快を感ずるので、自分はとうとうちい[#「ちい」に傍点]だけを取らしてしまった。
「好くってみんなに話しても」
 お重は湯で火照《ほて》った顔をぐるりと自分の方に向けた。自分は瞬《またた》きを二つ続けざまにした。
「だって御前は今兄さんの秘密だと明言したじゃないか」
「ええ秘密よ」
「秘密なら話してよくないにきまってるじゃないか」
「それを話すから面白いのよ」
 自分はお重の無鉄砲が、何を云い出すか分らないと思って腹の中では辟易《へきえき》した。
「お重御前は論理学でいうコントラジクション・イン・タームス、という事を知らないだろう」
「よくってよ。そんな高慢ちきな英語なんか使って、他《ひと》が知らないと思って」
「もう二人とも止《よ》しにおしよ。何だね面白くもない、十五六の子供じゃあるまいし」
 母はとうとう二人を窘《たし》なめた。自分もそれを好い機《しお》にすぐ舌戦を切り上げた。お重も団扇を縁側へ投げ出しておとなしく食卓に着いた。
 局面が一転した後《あと》なので、秘密らしい秘密は、食事中ついにお重の口から洩《も》れる機会がなかった。母も嫂《あによめ》もまるでそれには取り合う気色《けしき》も見せなかった。平吉という男が裏から出て来て、庭に水を打った。「まだそう燥《かわ》いていないんだから、好い加減にしておおき」と母が云っていた。

        二十七

 その晩番町を出たのは灯火《あかり》が点《つ》いてまだ間もない宵《よい》の口であった。それでも飯を済ましてから約一時間半ほどは、そこへ坐《すわ》り込んだまま、みんなを相手に喋舌《しゃべ》っていた。
 自分はその一時間半の間に、とうとうお重から例の秘密をあばかれる羽目に陥《おちい》った。しかしそれが自分に取っては、秘密でも何でもない例の結婚問題だったので、自分はかえって安心した。
「御母さん、兄さんは妾達《あたしたち》に隠れてこの間見合をなすったんですって」
「隠れて見合なんかするものか」
 自分は母がまだ何とも云わないうちにお重の言葉を遮《さえぎ》った。
「いいえたしかな筋からちゃんと聞いて来たんだから、いくら白ばっくれてももう駄目よ」
 たしかな筋というような一種の言葉が、お重の口から出るのを聞いたとき、自分は思わず苦笑した。
「馬鹿だなお前は」
「馬鹿でもいいわよ」
 お重は六月二日の出来事を母や嫂《あによめ》に向ってべらべら喋舌《しゃべ》り出した。それがなかなか精《くわ》しいので自分は少し驚いた。どこからその知識を得て来たのだろうという好奇心が強く自分の反問を促《うなが》した。けれどもお重はただ意地の悪い微笑を洩《も》らすのみで、けっして出所《しゅっしょ》を告げなかった。
「兄さんが妾達に黙っているのは、きっと打ち明けて云い悪《にく》い訳があるからなのよ。ね、そうでしょう、兄さん」
 お重は自分の好奇心を満足させないのみか、かえって向うからこっちを嬲《なぶ》りにかかった。自分は「どうでも好いや」と云った。母から真面目《まじめ》に事の顛末《てんまつ》を聞かれた時、自分は簡単にありのままを答えた。
「ただそれだけの事なんです。しかも向《むこう》じゃ全く知らないんだからそのつもりでいて下さい。お重見たいに好い加減な事を云い触らすと、僕はどうでも構わんにしたところで、先方が迷惑するかも知れませんから」
 母は先方が迷惑がるはずがないという顔つきで、むやみに細かい質問を始めた。しかし財産がどのくらいあるんだろうとか、親類に貧乏人があるだろうかとか、あるいは悪い病気の系統を引いていやしなかろうかと云うような事になると、自分にはまるで答えられなかった。のみならずしまいには聞くのさえ面倒で厭《いや》になって来た。自分はとうとう逃げ出すようにして番町を出た。
 自分がその夜母からいろいろな質問を掛けられている間、嫂《あによめ》は始終《しじゅう》同じ席にいたが、この問題に関してはほとんど一言《ひとこと》も口を開かなかった。母も彼女に向ってついぞ相談がましい言葉をかけなかった。二人のこの態度が、二人の気質をよく代表していた。しかしそれは単に気質の相違からばかり来た一種の対照とも思えなかった。嫂《あによめ》は全くの局外者らしい位地を守るためか何だか、始終《しじゅう》芳江のおもりに気を取られ勝に見えた。日が暮れさえすればすぐ寝かされる習慣の芳江は、昼寝を貪《むさぼ》り過ぎた結果として、その晩はとうとう自分が帰るまで蚊帳《かや》の中へ這入《はい》らなかった。
 自分は下宿へ帰って、自分の室《へや》の暑苦しいのを意外に感じた。わざと電気灯を消して暗い所に黙って坐っていた。今朝《けさ》立った兄は今日どこで泊るだろう。Hさんは今夜彼とどんな話をするだろう。鷹揚《おうよう》なHさんの顔が自然と眼の前に浮かんだ。それと共に瘠《や》せた兄の頬に刻《きざ》まれた久しぶりの笑が見えた。

        二十八

 その翌日《あくるひ》からHさんの手紙が心待に待ち受けられた。自分は一日《いちんち》、二日《ふつか》、三日《みっか》と指を折って日取を勘定《かんじょう》し始めた。けれどもHさんからは何の音信《たより》もなかった。絵端書《えはがき》一枚さえ来なかった。自分は失望した。Hさんに責任を忘れるような軽薄はなかった。しかしこちらの予期通り律義《りちぎ》にそれを果してくれないほどの大悠《たいゆう》はあった。自分は自烈《じれっ》たい部に属する人間の一人として遠くから彼を眺めた。
 すると二人が立ってからちょうど十一日目の晩に、重い封書が始めて自分の手に落ちた。Hさんは罫《けい》の細《こま》かい西洋紙へ、万年筆《まんねんふで》で一面に何か書いて
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