人は宮内省に関係のある役人の娘であった。その伴侶《つれ》は彼女と仲の好い友達であった。三沢は彼女と打ち合せをして、とくに自分のためにその人を誘い出したのであった。自分はその人の家族やら地位やら教育やらについて得らるる限りの知識を彼から供給して貰った。
 自分は本末《ほんまつ》を顛倒《てんどう》した。雅楽所で三沢に会うまでは、Hさんと兄とがこの夏いっしょにするという旅行の件を、その日の問題として暗《あん》に胸の中《うち》に畳み込んでいた。雅楽所を出る時は、それがほんのつけたりになってしまった。自分はいよいよ彼に別れる間際《まぎわ》になって、始めて四《よ》つ角《かど》の隅《すみ》に立った。
「兄の事も今日君に会ったらよく聞こうと思っていたんだが、いよいよHさんの云う通りになったんだね」
「Hさんはわざわざ僕を呼び寄せてそう云ったくらいなんだから間違はないさ。大丈夫だよ」
「どこへ行くんだろう」
「そりゃ知らない。――どこだって好いじゃないか、行きさいすりゃあ」
 遠くから見ている三沢の眼には、兄の運命が最初からそれほどの問題になっていなかった。
「それより片っ方のほうを積極的にどしどし進行させようじゃないか」
 自分は一人下宿へ帰る途々《みちみち》、やはり兄と嫂《あによめ》の事を考えない訳に行かなかった。しかしその日会った女の事もあるいは彼ら以上に考えたかも知れない。自分は彼女と一言《ひとこと》も口を交えなかった。自分はついに彼女の声を聞き得なかった。三沢は自然が二人を視線の通う一室に会合させたという事実以外に、わざとらしい痕迹《こんせき》を見せるのは厭《いや》だと云って、紹介も何もしなかった。彼はそう云って後《あと》から自分に断った。彼の遣口《やりくち》は、彼女に取っても自分に取っても、面倒や迷惑の起り得ないほど単簡《たんかん》で淡泊《たんぱく》なものであった。しかしそれだから物足りなかった。自分はもう少し何とかして貰いたかった。「しかし君の意志が解らなかったから」と三沢は弁解した。そう云われて見ると、そうでもあった。自分はあれ以上、女をめがけて進んで行く考えはなかったのだから。
 それから二三日は女の顔を時々頭の中で見た。しかしそれがために、また会いたいの焦慮《あせ》るのという熱は起らなかった。その当日のぱっとした色彩が剥《は》げて行くに連れて、番町の方が依然として重要な問題になって来た。自分はなまじい遠くから女の匂《にお》いを嗅《か》いだ反動として、かえってじじむさくなった。事務所の往復に、ざらざらした頬を撫《な》でて見て、手もなく電車に乗った貉《むじな》のようなものだと悲観したりした。
 一週間ほど経《た》って母から電話がかかった。彼女は電話口へ出て、昨日《きのう》Hさんが遊びに来た事を告げた。嫂《あによめ》が風邪気《かぜけ》なので、彼女が代理として饗応《もてなし》の席に出たら、Hさんが兄といっしょに旅行する話を始めたと告げた。彼女は喜ばしそうな調子で、自分に礼を述べた。父からも宜《よろ》しくとの事であった。自分は「いい案排《あんばい》でした」と答えた。
 自分はその晩いろいろ考えた。自分は旅行が兄のために有利であると認めたから、Hさんを煩《わずら》わして、これだけの手続を運んだのであるが、真底《しんてい》を自白すると、自分の最も苦《く》に病《や》んでいるのは、兄の自分に対する思わくであった。彼は自分をどう見ているだろうか。どのくらいの程度に自分を憎んでいるだろう、また疑《うたぐ》っているだろう。そこが一番知りたかった。したがって自分の気になるのは未来の兄であると同時に現在の兄であった。久しく彼と会見の路《みち》を絶たれた自分は、その現在の兄に関する直接の知識をほとんどもたなかった。

        二十二

 自分は旅行に出る前のHさんに一応会っておく必要を感じた。こっちで頼んだ事を順に運んでくれた好意に対して、礼を云わなければすまない義理も控えていた。
 自分は事務所の帰りがけにまた彼の玄関に立って名刺を出した。取次が奥へ這入《はい》ったかと思うと、彼は例のむくむくした丸い体躯《からだ》を、自分の前に運んで来た。
「実は今あしたの講義で苦しんでいるところなんですがね。もし急用でなければ、今日は御免《ごめん》を蒙《こうむ》りたい」
 学者の生活に気のつかなかった自分は、Hさんのこの言葉で、急に兄の日常を想《おも》い起した。彼らの書斎に立籠《たてこも》るのは、必ずしも家庭や社会に対する謀反《むほん》とも限らなかった。自分はHさんに都合の好い日を聞いて、また出直す事にした。
「じゃ御気の毒だが、そうして下さい。なるべく早く講義を切り上げて、兄さんといっしょに旅行しようと云う訳なんだからね」
 自分はHさんの前に丁寧《ていねい》な頭を下げなければならなかった。
 彼の家を再度|訪問《おとず》れたのは、それからまた二三日経った梅雨晴《つゆばれ》の夕方であった。肥《ふと》った彼は暑いと云って浴衣《ゆかた》の胸を胃の上部まで開け放って坐《すわ》っていた。
「さあどこへ行くかね。まだ海とも山ともきめていないんだが」
 Hさんだけあって行く先などはとんと苦《く》にしていないらしかった。自分もそれには無頓着《むとんじゃく》であった。けれども……。
「少しそれについて御願があるんですが」
 家庭の事情の一般は、この間三沢と来た時、すでにHさんの耳に入れてしまった。しかし兄と自分との間に横たわる一種特別な関係については、まだ一言《ひとこと》も彼に告げていなかった。しかしそれはいつまで経ってもHさんの前で自分から打ち明《あけ》るべき性質のものでないと自分は考えていた。親しい三沢の知識ですら、そこになるとほとんど臆測《おくそく》に過ぎなかった。Hさんは三沢からその臆測の知識を間接に受けているかも知れなかったけれども、こっちから露骨に切り出さない以上、その信偽《しんぎ》も程度も、まるで確める訳に行かなかった。
 自分は兄から今どう見られているか、どう思われているか、それが知りたくって仕方がなかった。それを知るために、この際Hさんの助《たすけ》を借りようとすれば、勢い万事を彼の前に投げ出して見せなければならなかった。自分が三沢に何事も云わずに、あたかも彼を出し抜いたような態度で、たった一人こうしてHさんを訪問するのも、実はその用事の真相をなるべく他《ひと》に知らせたくないからであった。しかし三沢に対してさえ、良心に気兼《きがね》をするような用事の真相なら、それをHさんの前で云われるはずがなかった。
 自分はやむをえず特殊《スペシャル》な問題を一般的《ジェネラル》に崩《くず》してしまった。
「はなはだ御迷惑かも知れませんが、兄といっしょに旅行される間、兄の挙動なり言語なり、思想なり感情なりについて、あなたの御観察になったところを、できるだけ詳《くわ》しく書いて報知していただく訳には行きますまいか。その辺が明瞭《めいりょう》になると、宅《たく》でも兄の取扱上大変|便宜《べんぎ》を得るだろうと思うんですが」
「そうさね。絶対にできない事もないが、ちっとむずかしそうですね。だいち時間がないじゃないか、君、そんな事をする。よし時間があっても、必要がないだろう。それより僕らが旅行から帰ったらゆっくり聞きに来たら好いじゃありませんか」

        二十三

 Hさんの云うところはもっともであった。自分は下を向いてしばらく黙っていたが、とうとう嘘《うそ》を吐《つ》いた。
「実は父や母が心配して、できるなら旅行中の模様を、経過の一段落ごとに承知したいと云うんですが……」
 自分は困った顔をした。Hさんは笑い出した。
「君そんなに心配する事はありませんよ。大丈夫だよ、僕が受け合うよ」
「しかし年寄ですから……」
「困るね、それじゃ。だから年寄は嫌《きら》いなんだ。宅《うち》へ行ってそう云いたまえな、大丈夫だって」
「何とか好い工夫はないもんでしょうか。あなたの御迷惑にならないで、そうして、父や母を満足させるような」
 Hさんはまたにやにや笑っていた。
「そんな重宝な工夫があるものかね、君。――しかしせっかくの御依頼だからこうしよう。もし旅先で報道するに足るような事が起ったら、君の所へ手紙を上げると。もし手紙が行かなかったら、平生の通りだと思って安心していると。それでよかろう」
 自分はこれより以上Hさんに望む事はできなかった。
「それで結構です。しかし出来事という意味を俗にいう不慮の出来事と取らずに、あなたが御観察になる兄の感情なり思想のうちで、これは尋常でないと御気づきになったものに応用していただけましょうか」
「なかなか面倒だね、事が。しかしまあいいや、そうしてもいい」
「それからことによると、僕の事だの母の事だの、家庭の事などが兄の口に上《のぼ》るかも知れませんが、それを御遠慮なく一々聞かしていただきたいと思いますが」
「うん、そりゃ差支《さしつか》えない限り知らせて上げましょう」
「差支えがあっても構わないから聞かしていただきたい。それでないと宅《うち》のものが困りますから」
 Hさんは黙って煙草《たばこ》を吹かし出した。自分は弱輩《じゃくはい》の癖に多少云い過ぎた事に気がついた。手持無沙汰《てもちぶさた》の感じが強く頭に上った。Hさんは庭の方を見ていた。その隅《すみ》に秋田から家主が持って来て植えたという大きな蕗《ふき》が五六本あった。雨上りの初夏の空がいつまでも明るい光を地の上に投げているので、その太い蕗の茎《くき》がすいすいと薄暗い中に青く描かれていた。
「あすこへ大きな蟇《がま》が出るんですよ」とHさんが云った。
 しばらく世間話をした後で、自分は暗くならないうちに席を立とうとした。
「君の縁談はどうなりました。この間三沢が来て、好いのを見つけてやったって得意になっていましたよ」
「ええ三沢もずいぶん世話好《せわずき》ですから」
「ところが万更《まんざら》世話好ばかりでやってるんでもないようですよ。だから君も好い加減に貰っちまったら好いじゃありませんか。器量は悪かないって話じゃないか。君には気に入らんのかね」
「気に入らんのじゃありません」
 Hさんは「はあやっぱり気に入ったのかい」と云って笑い出した。自分はHさんの門を出て、あの事も早くどうかしなければ、三沢に対して義理が悪いと考えた。しかし兄の問題が一段落でも片づいてくれない以上、とうていそっちへ向ける心の余裕は出なかった。いっそ一思いにあの女の方から惚《ほ》れ込んでくれたならなどと思っても見た。

        二十四

 自分はまた三沢を尋ねた。けれども腹をきめてから尋ねた訳でないから、実際上どんな歩調も前に動かす気にはなれなかった。自分の態度はどこまでもぐずぐずであった。そうしてただ漫然とその女の話をした。
「どうするね」
 こう聞かれると、結局要領を得た何の挨拶《あいさつ》もできなかった。
「僕は職業の上ではふわふわして浪人のように暮しているが、家庭の人としてなら、これでも一定の方針に支配されて、着々固まって行きつつあるつもりだ。ところが君はまるで反対だね。一家の主人となるとか、他《ひと》の夫になるとかいう方面には、故意に意志の働きを鈍らせる癖に、職業の問題になると、手っ取早く片づけて、ちゃんと落ちついているんだから」
「あんまり落ちついてもいないさ」
 自分は大阪の岡田から受取った手紙の中に、相応な位地《いち》があちらにあるから来ないかという勧誘があったので、ことによったら今の事務所を飛び出そうかと考えていた。
「ついこの間までは洋行するってしきりに騒いでいたじゃないか」
 三沢は自分の矛盾を追窮した。自分には西洋も大阪も変化としてこの際大した相違もなかった。
「そう万事|的《あて》にならなくっちゃ駄目だ。僕だけ君の結婚問題を真面目《まじめ》に考えるのは馬鹿馬鹿しい訳だ。断っちまおう」
 三沢はだいぶ癪《しゃく》に障《さわ》ったらしく見えた。自分はまた自分が癪に障
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