は晴れなかった。往来を行く人は傘をさしたり畳んだりした。見附外《みつけそと》の柳は煙のように長い枝を垂れていた。その下を通ると、青白い粉《こ》か黴《かび》が着物にくっついていつまでも落ちないように感ぜられた。
雅楽所の門内には俥《くるま》がたくさん並んでいた。馬車も一二台いた。しかし自動車は一つも見えなかった。自分は玄関先で帽子を人に渡した。その人は金の釦鈕《ボタン》のついた制服のようなものを着ていた。もう一人の人が自分を観覧席へ連れて行ってくれた。
「そこいらへおかけなすって」
彼はそう云ってまた玄関の方へ帰って行った。椅子はまだ疎《まば》らに占領されているだけであった。自分はなるべく人の眼に着かないように後列の一脚に腰を下《おろ》した。
十八
自分は心のうちで三沢を予期しながら四方を見渡したが彼の姿はどこにも見えなかった。もっとも見所《けんじょ》は正面のほか左右|両側面《りょうそくめん》にもあった。自分は玄関から左へ突き当って右へ折れて金屏風《きんびょうぶ》の立ててある前を通って正面席に案内されたのである。自分の前には紋付《もんつき》の女が二三人いた。後《うしろ》にはカーキー色の軍服を着けた士官が二人いた。そのほか六七人そこここに散点していた。
自分から一席置いて隣の二人連《ふたりづれ》は、舞台の正面にかかっている幕の話をしていた。それには雅楽に何の縁故《ゆかり》もなさそうに見える変な紋《もん》が、竪《たて》に何行も染め出されていた。
「あれが織田信長《おだのぶなが》の紋ですよ。信長が王室の式微《しきび》を慨《なげ》いて、あの幕を献上したというのが始まりで、それから以後は必ずあの木瓜《もっこう》の紋の付いた幕を張る事になってるんだそうです」
幕の上下は紫地《むらさきじ》に金《きん》の唐草《からくさ》の模様を置いた縁《ふち》で包んであった。
幕の前を見ると、真中に太鼓《たいこ》が据《す》えてあった。その太鼓には緑や金や赤の美しい彩色《いろどり》が施《ほどこ》されてあった。そうして薄くて丸い枠《わく》の中に入れてあった。左の端には火熨斗《ひのし》ぐらいの大きさの鐘がやはり枠の中に釣るしてあった。そのほかには琴《こと》が二面あった。琵琶《びわ》も二面あった。
楽器の前は青い毛氈《もうせん》で敷きつめられた舞をまう所になっていた。構造は能のそれのように、三方の見所からは全く切り離されていた。そうしてその途切《とぎ》れた四五尺の空間からは日も射し風も通うようにできていた。
自分が物珍らしそうにこの様子を見ているうちに、観客《けんぶつ》は一人二人と絶えず集まって来た。その中には自分がある音楽会で顔だけ覚えたNという侯爵もいた。「今日は教育会があるので来られない」と細君の事か何かを、傍《そば》にいた坊主頭の丸々と肥えた小さい人に話していた。この丸い小さな人がKという公爵である事を、自分は後《あと》で三沢から教《おす》わった。
その三沢は舞楽の始まるやっと五六分前にフロックコートでやって来て、入口の金屏風の所でしばらく観覧席を見渡しながら躊躇《ちゅうちょ》していたが、自分の顔を見つけるや否や、すぐ傍へ来て腰をかけた。
彼と前後して一人の背の高い若い男が、年頃の女を二人連れて、やはり正面席へ這入《はい》って来た。男はフロックコートを着ていた。女は無論紋付であった。その男と伴《つれ》の女の一人が顔立から云ってよく似ているので、自分はすぐ彼らの兄妹である事を覚《さと》った。彼らは人の頭を五六列越して、三沢と挨拶《あいさつ》を交換した。男の顔にはできるだけの愛嬌《あいきょう》が湛《たた》えられた。女は心持顔を赤くした。三沢はわざわざ腰を浮かして起立した。婦人はたいてい前の方に席を占めるので、彼らはついに自分達の傍《そば》へは来なかった。
「あれが僕の妻《さい》になるべき人だ」と三沢は小声で自分に告げた。自分は腹の中で、あの夢のような大きな黒い眼の所有者であった精神病のお嬢さんと、自分の二三間前に今席を取った色沢《いろつや》の好いお嬢さんとを比較した。彼女は自分にただ黒い髪と白い襟足《えりあし》とを見せて坐っていた。それも人の影に遮《さえぎ》られて自由には見られなかった。
「もう一人の女ね」と三沢がまた小声で云いかけた。それから彼は突然ポッケットへ手を入れて、白い紙片《かみきれ》と万年筆を取り出した。彼はすぐそれへ何か書き始めた。正面の舞台にはもう楽人《がくじん》が現われた。
十九
彼らは帽子とも頭巾《ずきん》とも名の付けようのない奇抜なものを被《かぶ》っていた。謡曲の富士太鼓を知っていた自分は、おおかたこれが鳥兜《とりかぶと》というものだろうと推察した。首から下も被りものと同じく現代を超越していた。彼らは錦で作った※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》のようなものを着ていた。その※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]には骨がないので肩のあたりは柔《やわら》かな線でぴたりと身体《からだ》に付いていた。袖《そで》には白の先へ幅三寸ぐらいの赤い絹が縫足《ぬいた》してあった。彼らはみな白の括《くく》り袴《ばかま》を穿《は》いていた。そうして一様《いちよう》に胡坐《あぐら》をかいた。
三沢は膝《ひざ》の上で何か書きかけた白い紙をくちゃくちゃにした。自分はそのくちゃくちゃになった紙の塊《かたま》りを横から眺めた。彼は一言《いちごん》の説明も与えずに正面を見た。青い毛氈《もうせん》の上に左の帳《とばり》の影から現われたものは鉾《ほこ》をもっていた。これも管絃《かんげん》を奏する人と同じく錦の袖無《そでなし》を着ていた。
三沢はいつまで経《た》っても「もう一人の女はね」の続きを云わなかった。観覧席にいるものはことごとく静粛であった。隣同志で話をするのさえ憚《はば》かられた。自分は仕方なしに催促を我慢した。三沢も空とぼけて澄ましていた。彼は自分と同じようにここへは始めて顔を出したので、少し硬くなっているらしかった。
舞は謹慎な見物の前に、既定のプログラム通り、単調で上品な手足の運動を飽《あ》きもせずに進行させて行った。けれども彼らの服装は、題の改《あらた》まるごとに、閑雅な上代の色彩を、代る代る自分達の眼に映しつつ過ぎた。あるものは冠に桜の花を挿《さ》していた。紗《しゃ》の大きな袖《そで》の下から燃えるような五色の紋を透《す》かせていた。黄金作《こがねづくり》の太刀《たち》も佩《は》いていた。あるものは袖口《そでぐち》を括《くく》った朱色の着物の上に、唐錦《からにしき》のちゃんちゃんを膝《ひざ》のあたりまで垂らして、まるで錦に包まれた猟人《かりゅうど》のように見えた。あるものは簑《みの》に似た青い衣《きぬ》をばらばらに着て、同じ青い色の笠《かさ》を腰に下げていた。――すべてが夢のようであった。われわれの祖先が残して行った遠い記念《かたみ》の匂《にお》いがした。みんなありがたそうな顔をしてそれを観《み》ていた。三沢も自分も狐に撮《つ》ままれた気味で坐っていた。
舞楽が一段落ついた時に、御茶を上げますと誰かが云ったので周囲の人は席を立って別室に動き始めた。そこへ先刻《さっき》三沢と約束の整ったという女の兄《あに》さんが来て、物馴《ものな》れた口調で彼と話した。彼はこういう方面に関係のある男と見えて、当日案内を受けた誰彼をよく知っていた。三沢と自分はこの人から今までそこいらにいた華族や高官や名士の名を教えて貰った。
別室には珈琲《コーヒー》とカステラとチョコレートとサンドイッチがあった。普通の会の時のように、無作法《ぶさほう》なふるまいは見受けられなかったけれども、それでも多少込み合うので、女は坐《すわ》ったなり席を立たないのがあった。三沢と彼の知人は、菓子と珈琲を盆の上に載せて、わざわざ二人の御嬢さんの所へ持って行った。自分はチョコレートの銀紙を剥《はが》しながら、敷居の上に立って、遠くからその様子を偸《ぬす》むように眺めていた。
三沢の細君になるべき人は御辞義《おじぎ》をして、珈琲|茶碗《ぢゃわん》だけを取ったが、菓子には手を触れなかった。いわゆる「もう一人の女」はその珈琲茶碗にさえ容易《たやす》く手を出さなかった。三沢は盆を持ったまま、引く事もできず進む事もできない態度で立っていた。女の顔が先刻《さっき》見た時よりも子供子供した苦痛の表情に充《み》ちていた。
二十
自分は先刻から「もう一人の女」に特別の注意を払っていた。それには三沢の様子や態度が有力な原因となって働いていたに違ないが、単独に云っても、彼女は自分の視線を引着けるに足るほどな好い器量《きりょう》をもっていたのである。自分は彼女と三沢の細君になるべき人との後姿《うしろすがた》を、舞楽《ぶがく》の相間相間に絶えず眺めた。彼らは自分の坐っている所から、ことさらな方向に眸子《ひとみ》を転ずる事なしに、自然と見られるように都合の好い地位に坐っていた。
こうして首筋ばかり眺めていた自分は今比較的自由な場所に立って、彼らの顔立を筋違《すじかい》に見始めた。あるいは正面に動く機会が来るかも知れないと思った時、自分はチョコレートを頬張《ほおば》りながら、暗《あん》にその瞬間を捉《とら》える注意を怠《おこた》らなかった。けれどもその女も三沢の意中の人も、ついにこっちを向かなかった。自分はただ彼らの容貌《ようぼう》を三分の二だけ側面から遠くに望んだ。
そのうち三沢はまた盆を持ってこっちへ帰って来た。自分の傍《そば》を通る時、彼は微笑しながら、「どうだい」と云った。自分はただ「御苦労さま」と挨拶《あいさつ》した。後《あと》から例の背の高い兄さんがやって来た。
「どうです、あちらへいらしって煙草でも御呑《おの》みになっちゃ。喫煙室はあすこの突き当りです」
自分は三沢との間に緒口《いとぐち》のつきかけた談話はこれでまた流れてしまった。二人は彼に導かれて喫煙室に這入《はい》った。煙と男子に占領された比較的狭いその室《へや》は思ったより賑《にぎや》かであった。
自分はその一隅《ひとすみ》にただ一人の知った顔を見出した。それは伶人《れいじん》の姓をもった眼の大きい男であった。ある協会の主要な一員として、舞台の上で巧《たくみ》にその大きな眼を利用する男であった。彼は台詞《せりふ》を使う時のような深い声で、誰かと話していたが、ほとんど自分達と入れ代りぐらいに、喫煙室を出て行った。
「とうとう役者になったんだそうだ」
「儲《もう》かるのかね」
「ええ儲かるんだろう」
「この間何とかをやるという事が新聞に出ていたが、あの人なんですか」
「ええそうだそうです」
彼の去った後《あと》で、室の中央にいた三人の男はこんな話をしていた。三沢の知人は自分達にその三人の名を教えてくれた。そのうちの二人は公爵で、一人は伯爵であった。そうして三人が三人とも公卿出《くげで》の華族であった。彼らの会話から察すると、三人ながらほとんど劇という芸術に対して何の知識も興味ももっていないようであった。
我々はまた元の席に帰って二三番の欧洲楽《おうしゅうがく》を聞いた後、ようやく五時頃になって雅楽所を出た。周囲に人がいなくなった時、三沢はようやく「もう一人の女」の事について語り始めた。彼の考えは自分が最初から推察した通りであった。
「どうだい、気に入らないかね」
「顔は好いね」
「顔だけかい」
「あとは分らないが、しかし少し旧式じゃないか。何でも遠慮さえすればそれが礼儀だと思ってるようだね」
「家庭が家庭だからな。しかしああいうのが間違がないんだよ」
二人は土手に沿うて歩いた。土手の上の松が雨を含んで蒼黒《あおぐろ》く空に映った。
二十一
自分は三沢と飽《あ》かず女の話をした。彼の娶《めと》るべき
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