いた。自分は彼がその招待に応じたか、上野へ出かけたか、はたして留守であるかさえ知らなかった。自分は自分の前にいる嫂《あによめ》を見て、彼女が披露の席に臨まないという事だけを確めた。
 自分は兄の名が話頭に上らないのを苦にした。同時に彼の名が出て来るのを憚《はばか》った。そうした心持でみんなの顔を見ると、無邪気な顔は一つもないように思えた。
 自分はしばらくしてお重に「お重お前の室《へや》をちょっと御見せ。綺麗《きれい》になったって威張ってたから見てやろう」と云った。彼女は「当り前よ、威張るだけの事はあるんだから行って御覧なさい」と答えた。自分は下宿をするまで朝夕《ちょうせき》寝起きをした、家中《うちじゅう》で一番|馴染《なじみ》の深い、故《もと》のわが室を覗《のぞ》きに立った。お重は果して後《あと》から随《つ》いて来た。

        十一

 彼女の室は自慢するほど綺麗にはなっていなかったけれども、自分の住み荒した昔に比べると、どこかになまめいた匂《にお》いが漂よっていた。自分は机の前に敷いてある派出《はで》な模様の座蒲団《ざぶとん》の上に胡坐《あぐら》をかいて、「なるほど」と云いながらそこいらを見廻した。
 机の上には和製のマジョリカ皿があった。薔薇《ばら》の造り花がセゼッション式の一輪瓶《いちりんざし》に挿《さ》してあった。白い大きな百合《ゆり》を刺繍《ぬい》にした壁飾りが横手にかけてあった。
「ハイカラじゃないか」
「ハイカラよ」
 お重の澄ました顔には得意の色が見えた。
 自分はしばらくそこでお重に調戯《からか》っていた。五六分してから彼女に「近頃兄さんはどうだい」とさも偶然らしく問いかけて見た。すると彼女は急に声を潜《ひそ》めて、「そりゃ変なのよ」と答えた。彼女の性質は嫂とは全く反対なので、こう云う場合には大変都合が好かった。いったん緒口《いとぐち》さえ見出せば、あとはこっちで水を向ける必要も何もなかった。隠す事を知らない彼女は腹にある事をことごとく話した。黙って聞いていた自分にもしまいには蒼蠅《うるさ》いほどであった。
「つまり兄さんが家《うち》のものとあんまり口を利《き》かないと云うんだろう」
「ええそうよ」
「じゃ僕の家を出た時と同じ事じゃないか」
「まあそうよ」
 自分は失望した。考えながら、煙草《たばこ》の灰をマジョリカ皿の中へ遠慮なくはたき落した。お重は厭《いや》な顔をした。
「それペン皿よ。灰皿じゃないわよ」
 自分は嫂《あによめ》ほどに頭のできていないお重から、何も得るところのないのを覚《さと》って、また父や母のいる座敷へ帰ろうとした時、突然妙な話を彼女から聞いた。
 その話によると、兄はこの頃テレパシーか何かを真面目《まじめ》に研究しているらしかった。彼はお重を書斎の外に立たしておいて、自分で自分の腕を抓《つね》った後《あと》「お重、今兄さんはここを抓ったが、お前の腕もそこが痛かったろう」と尋ねたり、または室《へや》の中で茶碗の茶を自分一人で飲んでおきながら、「お重お前の咽喉《のど》は今何か飲む時のようにぐびぐび鳴りやしないか」と聞いたりしたそうである。
「妾《あたし》説明を聞くまでは、きっと気が変になったんだと思って吃驚《びっく》りしたわ。兄さんは後で仏蘭西《フランス》の何とかいう人のやった実験だって教えてくれたのよ。そうしてお前は感受性が鈍いから罹《かか》らないんだって云うのよ。妾《あたし》嬉《うれ》しかったわ」
「なぜ」
「だってそんなものに罹るのはコレラに罹るより厭だわ妾」
「そんなに厭かい」
「きまってるじゃありませんか。だけど、気味が悪いわね、いくら学問だってそんな事をしちゃ」
 自分もおかしいうちに何だか気味の悪い心持がした。座敷へ帰って来ると、嫂の姿はもうそこに見えなかった。父と母は差し向いになって小さな声で何か話し合っていた。その様子が今しがた自分一人で家中を陽気にした賑《にぎ》やかな人の様子とも見えなかった。「ああ育てるつもりじゃなかったんだがね」という声が聞えた。
「あれじゃ困りますよ」という声も聞えた。

        十二

 自分はその席で父と母から兄に関する近況の一般を聞いた。彼らの挙《あ》げた事実は、お重を通して得た自分の知識に裏書をする以外、別に新しい何物をも付け加えなかったけれども、その様子といい言葉といい、いかにも兄の存在を苦《く》にしているらしく見えて、はなはだ痛々しかった。彼ら(ことに母)は兄一人のために宅中《うちじゅう》の空気が湿《しめ》っぽくなるのを辛《つら》いと云った。尋常の父母以上にわが子を愛して来たという自信が、彼らの不平を一層濃く染めつけた。彼らはわが子からこれほど不愉快にされる因縁《いんねん》がないと暗に主張しているらしく思われた。したがって自分が彼らの前に坐《すわ》っている間、彼らは兄を云々するほか、何人《なんびと》の上にも非難を加えなかった。平生から兄に対する嫂の仕打に飽《あ》き足らない顔を見せていた母でさえ、この時は彼女についてついに一口も訴えがましい言葉を洩《も》らさなかった。
 彼らの不平のうちには、同情から出る心配も多量に籠《こも》っていた。彼らは兄の健康について少からぬ掛念《けねん》をもっていた。その健康に多少支配されなければならない彼の精神状態にも冷淡ではあり得なかった。要するに兄の未来は彼らにとって、恐ろしいX《エッキス》であった。
「どうしたものだろう」
 これが相談の時必ず繰り返されべき言葉であった。実を云えば、一人一人離れている折ですら、胸の中《うち》でぼんやり繰り返して見るべき二人の言葉であった。
「変人《へんじん》なんだから、今までもよくこんな事があったには有ったんだが、変人だけにすぐ癒《なお》ったもんだがね。不思議だよ今度《こんだ》は」
 兄の機嫌買《きげんかい》を子供のうちから知り抜いている彼らにも、近頃の兄は不思議だったのである。陰欝《いんうつ》な彼の調子は、自分が下宿する前後から今日《こんにち》まで少しの晴間なく続いたのである。そうしてそれがだんだん険悪の一方に向って真直《まっすぐ》に進んで行くのである。
「本当に困っちまうよ妾《わたし》だって。腹も立つが気の毒でもあるしね」
 母は訴えるように自分を見た。
 自分は父や母と相談のあげく、兄に旅行でも勧めて見る事にした。彼らが自分達の手際《てぎわ》ではとても駄目だからというので、自分は兄と一番親密なHさんにそれを頼むが好かろうと発議《ほつぎ》して二人の賛成を得た。しかしその頼み役には是非共自分が立たなければ済まなかった。春休みにはまだ一週間あった。けれども学校の講義はもうそろそろしまいになる日取であった。頼んで見るとすれば、早くしなければ都合が悪かった。
「じゃ二三日《にさんち》うちに三沢の所へ行って三沢からでも話して貰うかまた様子によったら僕がじかに行って話すか、どっちかにしましょう」
 Hさんとそれほど懇意でない自分は、どうしても途中に三沢を置く必要があった。三沢は在学中Hさんを保証人にしていた。学校を出てからもほとんど家族の一人のごとく始終《しじゅう》そこへ出入していた。
 帰りがけに挨拶《あいさつ》をしようと思って、ちょっと嫂《あによめ》の室《へや》を覗《のぞ》いたら、嫂は芳江を前に置いて裸人形に美しい着物を着せてやっていた。
「芳江大変大きくなったね」
 自分は芳江の頭へ立ちながら手をかけた。芳江はしばらく顔を見なかった叔父に突然|綾《あや》されたので、少しはにかんだように唇《くちびる》を曲げて笑っていた。門を出る時はかれこれ五時に近かったが、兄はまだ上野から帰らなかった。父は久しぶりだから飯《めし》でも食って彼に会って行けと云ったが、自分はとうとうそれまで腰を据《す》えていられなかった。

        十三

 翌日《あくるひ》自分は事務所の帰りがけに三沢を尋ねた。ちょうど髪を刈りに今しがた出かけたところだというので、自分は遠慮なく上り込んで彼を待つ事にした。
「この両三日《りょうさんにち》はめっきりお暖かになりました。もうそろそろ花も咲くでございましょう」
 主人の帰る間座敷へ出た彼の母は、いつもの通り丁寧《ていねい》な言葉で自分に話し掛けた。
 彼の室《へや》は例のごとく絵だのスケッチだので鼻を突きそうであった。中には額縁《がくぶち》も何《な》にもない裸のままを、ピンで壁の上へじかに貼《は》り付けたのもあった。
「何だか存じませんが、好《すき》だものでございますから、むやみと貼散らかしまして」と彼の母は弁解がましく云った。自分は横手の本棚《ほんだな》の上に、丸い壺《つぼ》と並べて置いてあった一枚の油絵に眼を着けた。
 それには女の首が描《か》いてあった。その女は黒い大きな眼をもっていた。そうしてその黒い眼の柔《やわら》かに湿《うるお》ったぼんやりしさ加減が、夢のような匂《におい》を画幅全体に漂わしていた。自分はじっとそれを眺めていた。彼の母は苦笑して自分を顧みた。
「あれもこの間いたずらに描きましたので」
 三沢は画《え》の上手な男であった。職業柄自分も画の具を使う道ぐらいは心得ていたが、芸術的の素質を饒《ゆた》かにもっている点において、自分はとうてい彼の敵ではなかった。自分はこの画を見ると共に可憐なオフィリヤを連想した。
「面白いです」と云った。
「写真を台にして描いたんだから気分がよく出ない、いっそ生きてるうちに描かして貰《もら》えば好かったなんて申しておりました。不幸な方で、二三年前に亡くなりました。せっかく御世話をして上げた御嫁入先も不縁でね、あなた」
 油絵のモデルは三沢のいわゆる出戻《でもど》りの御嬢さんであった。彼の母は自分の聞かない先きに、彼女についていろいろと語った。けれども女と三沢との関係は一言《ひとこと》も口にしなかった。女の精神病に罹《かか》った事にもまるで触れなかった。自分もそれを聞く気は起らなかった。かえって話頭をこっちで切り上げるようにした。
 問題は彼女を離れるとすぐ三沢の結婚談に移って行った。彼の母は嬉《うれ》しそうであった。
「あれもいろいろ御心配をかけましたが、今度ようやくきまりまして……」
 この間三沢から受取った手紙に、少し一身上《いっしんじょう》の事について、君に話があるからそのうち是非行くと書いてあったのが、この話でやっと悟れた。自分は彼の母に対して、ただ人並の祝意を表しておいたが、心のうちではその嫁になる人は、はたしてこの油絵に描いてある女のように、黒い大きな滴《したた》るほどに潤《うるお》った眼をもっているだろうか、それが何より先に確めて見たかった。
 三沢は思ったほど早く帰らなかった。彼の母はおおかた帰りがけに湯にでも行ったのだろうと云って、何なら見せにやろうかと聞いたが、自分はそれを断った。しかし彼女に対する自分の話は、気の毒なほど実《み》が入らなかった。
 三沢にどうだろうと云った自分の妹《いもと》のお重は、まだどこへ行くともきまらずにぐずぐずしている。そういう自分もお重と同じ事である。せっかく身の堅まった兄と嫂《あによめ》は折り合わずにいる。――こんな事を対照して考えると、自分はどうしても快活になれなかった。

        十四

 そのうち三沢が帰って来た。近頃は身体《からだ》の具合が好いと見えて、髪を刈って湯に入った後の彼の血色は、ことにつやつやしかった。健康と幸福、自分の前に胡坐《あぐら》をかいた彼の顔はたしかにこの二つのものを物語っていた。彼の言語態度もまたそれに匹敵《ひってき》して陽気であった。自分の持って来た不愉快な話を、突然と切り出すには余りに快活すぎた。
「君どうかしたか」
 彼の母が席を立って二人差向いになった時、彼はこう問いかけた。自分は渋りながら、兄の近況を彼に訴えなければならなかった。その兄を勧めて旅行させるように、彼からHさんに頼んでくれと云わなければならなかった。
「父や母が心配するのをただ黙って見ているのも気の毒だから」
 
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