宗教心を、自分一人で持って生れた女らしかった。その代り他《ひと》の運命も畏れないという性質《たち》にも見えた。
「男は厭《いや》になりさえすれば二郎さん見たいにどこへでも飛んで行けるけれども、女はそうは行きませんから。妾なんかちょうど親の手で植付けられた鉢植《はちうえ》のようなもので一遍植えられたが最後、誰か来て動かしてくれない以上、とても動けやしません。じっとしているだけです。立枯《たちがれ》になるまでじっとしているよりほかに仕方がないんですもの」
 自分は気の毒そうに見えるこの訴えの裏面に、測《はか》るべからざる女性《にょしょう》の強さを電気のように感じた。そうしてこの強さが兄に対してどう働くかに思い及んだ時、思わずひやりとした。
「兄さんはただ機嫌《きげん》が悪いだけなんでしょうね。ほかにどこも変ったところはありませんか」
「そうね。そりゃ何とも云えないわ。人間だからいつどんな病気に罹《かか》らないとも限らないから」
 彼女はやがて帯の間から小さい女持の時計を出してそれを眺《なが》めた。室《へや》が静かなのでその蓋《ふた》を締める音が意外に強く耳に鳴った。あたかも穏かな皮膚の面《おもて》に鋭い針の先が触れたようであった。
「もう帰りましょう。――二郎さん御迷惑でしたろうこんな厭《いや》な話を聞かせて。妾《あたし》今まで誰にもした事はないのよ、こんな事。今日自分の宅《うち》へ行ってさえ黙ってるくらいですもの」
 上《あが》り口に待っていた車夫の提灯《ちょうちん》には彼女の里方《さとかた》の定紋《じょうもん》が付いていた。

        五

 その晩は静かな雨が夜通し降った。枕を叩《たた》くような雨滴《あまだれ》の音の中に、自分はいつまでも嫂《あによめ》の幻影《まぼろし》を描いた。濃《こ》い眉《まゆ》とそれから濃い眸子《ひとみ》、それが眼に浮ぶと、蒼白《あおしろ》い額や頬は、磁石《じしゃく》に吸いつけられる鉄片《てっぺん》の速度で、すぐその周囲《まわり》に反映した。彼女の幻影は何遍も打ち崩《くず》された。打ち崩されるたびに復《また》同じ順序がすぐ繰返された。自分はついに彼女の唇《くちびる》の色まで鮮かに見た。その唇の両端《りょうはし》にあたる筋肉が声に出ない言葉の符号《シンボル》のごとく微《かす》かに顫動《せんどう》するのを見た。それから、肉眼の注意を逃れようとする微細の渦《うず》が、靨《えくぼ》に寄ろうか崩れようかと迷う姿で、間断なく波を打つ彼女の頬をありありと見た。
 自分はそれくらい活《い》きた彼女をそれくらい劇《はげ》しく想像した。そうして雨滴《あまだれ》の音のぽたりぽたりと響く中に、取り留めもないいろいろな事を考えて、火照《ほて》った頭を悩まし始めた。
 彼女と兄との関係が悪く変る以上、自分の身体《からだ》がどこにどう飛んで行こうとも、自分の心はけっして安穏《あんのん》であり得なかった。自分はこの点について彼女にもっと具体的な説明を求めたけれども、普通の女のように零砕《れいさい》な事実を訴えの材料にしない彼女は、ほとんど自分の要求を無視したように取り合わなかった。自分は結果からいうと、焦慮《じら》されるために彼女の訪問を受けたと同じ事であった。
 彼女の言葉はすべて影のように暗かった。それでいて、稲妻《いなずま》のように簡潔な閃《ひらめき》を自分の胸に投げ込んだ。自分はこの影と稲妻とを綴《つづ》り合せて、もしや兄がこの間中《あいだじゅう》癇癖《かんぺき》の嵩《こう》じたあげく、嫂に対して今までにない手荒な事でもしたのではなかろうかと考えた。打擲《ちょうちゃく》という字は折檻《せっかん》とか虐待《ぎゃくたい》とかいう字と並べて見ると、忌《いま》わしい残酷な響を持っている。嫂は今の女だから兄の行為を全くこの意味に解しているかも知れない。自分が彼女に兄の健康状態を聞いた時、彼女は人間だからいつどんな病気に罹るかも知れないと冷《ひやや》かに云って退《の》けた。自分が兄の精神作用に掛念《けねん》があってこの問を出したのは彼女にも通じているはずである。したがって平生よりもなお冷淡な彼女の答は、美しい己《おの》れの肉に加えられた鞭《むち》の音を、夫の未来に反響させる復讐《ふくしゅう》の声とも取れた。――自分は怖《こわ》かった。
 自分は明日《あす》にも番町へ行って、母からでもそっと彼ら二人の近況を聞かなければならないと思った。けれども嫂《あによめ》はすでに明言した。彼ら夫婦関係の変化については何人《なんびと》もまだ知らない、また何人《なんびと》にも告げた事がないと明言した。影のような稲妻《いなずま》のような言葉のうちからその消息をぼんやりと焼きつけられたのは、天下に自分の胸がたった一つあるばかりであった。
 なぜあれほど言葉の寡《すく》ない嫂が自分にだけそれを話し出したのだろうか。彼女は平生から落ちついている。今夜も平生の通り落ちついていた。彼女は昂奮《こうふん》の極《きょく》訴える所がないので、わざわざ自分を訪《と》うたものとは思えなかった。だいち訴えという言葉からしてが彼女の態度には不似合であった。結果から云えば、自分は先刻《さっき》云った通りむしろ彼女から焦慮《じら》されたのであるから。
 彼女は火鉢にあたる自分の顔を見て、「なぜそう堅苦《かたくる》しくしていらっしゃるの」と聞いた。自分が「別段堅苦しくはしていません」と答えた時、彼女は「だって反《そ》っ繰《く》り返《かえ》ってるじゃありませんか」と笑った。その時の彼女の態度は、細い人指《ひとさし》ゆびで火鉢の向側から自分の頬《ほっ》ぺたでも突っつきそうに狎《な》れ狎れしかった。彼女はまた自分の名を呼んで、「吃驚《びっくり》したでしょう」と云った。突然雨の降る寒い晩に来て、自分を驚かしてやったのが、さも愉快な悪戯《いたずら》ででもあるかのごとくに云った。……
 自分の想像と記憶は、ぽたりぽたりと垂れる雨滴《あまだれ》の拍子《ひょうし》のうちに、それからそれからととめどもなく深更まで廻転した。

        六

 それから三四日《さんよっか》の間というもの自分の頭は絶えず嫂の幽霊に追い廻された。事務所の机の前に立って肝心《かんじん》の図を引く時ですら、自分はこの祟《たたり》を払い退《の》ける手段を知らなかった。ある日には始終《しじゅう》他人の手を借りて仕事を運んで行くようなはがゆい思さえ加わった。こうして自分で自分を離れた気分を持ちながら、上部《うわべ》だけを人並にやって行くのに傍《はた》の者はなぜ不審がらないのだろうと疑ぐって見たりした。自分はよほど前から事務所ではもう快活な男として通用しないようになっていた。ことに近来は口数さえ碌《ろく》に利《き》かなかった。それでこの三四日間に起った変化もまた他《ひと》の注意に上《のぼ》らずに済んでいるのだろうと考えた。そうして自己と周囲と全く遮断《しゃだん》された人の淋《さび》しさを独《ひと》り感じた。
 自分はこの間に一人の嫂をいろいろに視た。――彼女は男子さえ超越する事のできないあるものを嫁に来たその日からすでに超越していた。あるいは彼女には始めから超越すべき牆《かき》も壁もなかった。始めから囚《とら》われない自由な女であった。彼女の今までの行動は何物にも拘泥《こうでい》しない天真の発現に過ぎなかった。
 ある時はまた彼女がすべてを胸のうちに畳み込んで、容易に己を露出しないいわゆるしっかりもののごとく自分の眼に映じた。そうした意味から見ると、彼女はありふれたしっかりものの域《いき》を遥《はるか》に通り越していた。あの落ちつき、あの品位、あの寡黙《かもく》、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。驚くべく図々《ずうずう》しいものでもあった。
 ある刹那《せつな》には彼女は忍耐の権化《ごんげ》のごとく、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕迹《こんせき》さえ認められない気高《けだか》さが潜《ひそ》んでいた。彼女は眉《まゆ》をひそめる代りに微笑した。泣き伏す代りに端然《たんぜん》と坐った。あたかもその坐っている席の下からわが足の腐れるのを待つかのごとくに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、ほとんど彼女の自然に近いある物であった。
 一人の嫂《あによめ》が自分にはこういろいろに見えた。事務所の机の前、昼餐《ひるめし》の卓《たく》の上、帰《かえ》り途《みち》の電車の中、下宿の火鉢の周囲《まわり》、さまざまの所でさまざまに変って見えた。自分は他《ひと》の知らない苦しみを他に言わずに苦しんだ。その間思い切って番町へ出かけて行って、大体の様子を探るのがともかくも順序だとはしばしば胸に浮かんだ。けれども卑怯《ひきょう》な自分はそれをあえてする勇気をもたなかった。眼の前に怖《こわ》い物のあるのを知りながら、わざと見ないために瞼《まぶた》を閉じていた。
 すると五日目の土曜の午後に突然父から事務所の電話口まで呼び出された。
「御前は二郎かい」
「そうです」
「明日《あす》の朝ちょっと行くが好いかい」
「へえ」
「差支《さしつか》えがあるかい」
「いえ別に……」
「じゃ待っててくれ、好《い》いだろうね。さようなら」
 父はそれで電話を切ってしまった。自分は少からず狼狽《ろうばい》した。何の用事であるかをさえ確める余裕をもたなかった自分は、電話口を離れてから後悔した。もし用事があるなら呼びつけられそうなものだのにとすぐ変に思っても見た。父が向うから来るという違例な事が、この間の嫂の訪問に何か関係があるような気がして、自分の胸は一層不安になった。
 下宿に帰ったら、大阪の岡田から来た一枚の絵端書《えはがき》が机の上に載せてあった。それは彼ら夫婦が佐野とお貞さんを誘って、楽しい半日を郊外に暮らした記念であった。自分は机に向って長い間その絵端書を見つめていた。

        七

 日曜には思い切って寝坊をする癖のついていた自分も、次の朝だけは割合に早く起きた。飯を済まして新聞を読むと、その新聞が汽車を待ち合せる間に買って、せわしなく眼を通す時のように、何の見るところもないほど、つまらなく感ぜられた。自分はすぐ新聞を棄《す》てた。しかし五六分|経《た》たないうちにまたそれを取り上げた。自分は煙草を吸ったり、眼鏡《めがね》の曇《くもり》を丁寧《ていねい》に拭《ぬぐ》ったり、いろいろな所作《しょさ》をして、父の来るのを待ち受けた。
 父は容易に来なかった。自分は父の早起をよく承知していた。彼の性急《せっかち》にも子供のうちから善《よ》く馴《な》らされていた。落ちつかない自分は、電話でもかけて、どうしたのかこっちから父の都合を聞いて見ようかと思った。
 母に狎《な》れ抜いた自分は、常から父を憚《はばか》っていた。けれども、本当の底を割って見ると、柔和《やさ》しい母の方が、苛酷《きび》しい父よりはかえって怖《こわ》かった。自分は父に怒られたり小言を云われたりする時に、恐縮はしながらも、やっぱり男は男だと腹の中で思う事がたびたびあった。けれどもこの場合はいつもと違っていた。いくら父でもそう容易《たやす》く高を括《くく》る訳に行かなかった。電話をかけようとした自分はまたかけ得ずにしまった。
 父はとうとう十時頃になってやって来た。羽織《はおり》袴《はかま》で少しきまり過ぎた服装《なり》はしていたが、顔つきは存外穏かであった。小さい時から彼の手元で育った自分は、事のあるかないかを彼の顔色からすぐ判断する功を積んでいた。
「もっと早くおいでだろうと思って先刻《さっき》から待っていました」
「おおかた床の中で待ってたんだろう。早いのはいくら早くっても驚かないが、御前に気の毒だからわざと遅く出かけたのさ」
 父は自分の汲《く》んで出した茶を、飲むように甞《な》めるように、口の所へ持って行って、室《へや》の中をじろじろ見廻した。室には机と本箱と火鉢があるだけであった。
「好い室だね」
 父は自分達に対してもよくこ
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