どういう手段で結びつけて行くだろうと考えた。
自分が不意に下宿の下女から驚かされたのは、ちょうどこんな風に現実と空想の間に迷ってじっと火鉢に手を翳《かざ》していた、ある宵《よい》の口《くち》の出来事であった。自分は自分の注意を己《おの》れ一人に集めていたというものか、実際下女の廊下を踏んで来る足音に気がつかなかった。彼女が思いがけなくすうと襖《ふすま》を開けた時自分は始めて偶然のように眼を上げて彼女と顔を見合せた。
「風呂かい」
自分はすぐこう聞いた。これよりほかに下女が今頃自分の室《へや》の襖を開けるはずがないと思ったからである。すると下女は立ちながら「いいえ」と答えたなり黙っていた。自分は下女の眼元に一種の笑いを見た。その笑いの中《うち》には相手を翻弄《ほんろう》し得た瞬間の愉快を女性的《にょしょうてき》に貪《むさぼ》りつつある妙な閃《ひらめき》があった。自分は鋭く下女に向って、「何だい、突立《つった》ったまま」と云った。下女はすぐ敷居際《しきいぎわ》に膝《ひざ》を突いた。そうして「御客様です」とやや真面目《まじめ》に答えた。
「三沢だろう」と自分が云った。自分はある事で三沢の訪問を予期していたのである。
「いいえ女の方です」
「女の人?」
自分は不審の眉《まゆ》を寄せて下女に見せた。下女はかえって澄ましていた。
「こちらへ御通し申しますか」
「何という人だい」
「知りません」
「知りませんって、名前を聞かないでむやみに人の室へ客を案内する奴《やつ》があるかい」
「だって聞いてもおっしゃらないんですもの」
下女はこう云って、また先刻《さっき》のような意地の悪い笑を目元で笑った。自分はいきなり火鉢から手を放して立ち上った。敷居際に膝を突いている下女を追い退《の》けるようにして上《あが》り口《ぐち》まで出た。そうして土間の片隅にコートを着たまま寒そうに立っていた嫂《あによめ》の姿を見出した。
二
その日は朝から曇っていた。しかも打ち続いた好天気を一度に追い払うように寒い風が吹いた。自分は事務所から帰りがけに、外套《がいとう》の襟《えり》を立てて歩きながら道々雨になるのを気遣《きづか》った。その雨が先刻《さっき》夕飯《ゆうめし》の膳《ぜん》に向う時分からしとしとと降り出した。
「好くこんな寒い晩に御出かけでした」
嫂は軽く「ええ」と答えたぎりであった。自分は今まで坐《すわ》っていた蒲団《ふとん》の裏を返して、それを三尺の床の前に直して、「さあこっちへいらっしゃい」と勧めた。彼女はコートの片袖《かたそで》をするすると脱ぎながら「そうお客扱いにしちゃ厭《いや》よ」と云った。自分は茶器を洒《すす》がせるために電鈴《ベル》を押した手を放して、彼女の顔を見た。寒い戸外の空気に冷えたその頬《ほお》はいつもより蒼白《あおじろ》く自分の眸子《ひとみ》を射た。不断から淋《さむ》しい片靨《かたえくぼ》さえ平生《つね》とは違った意味の淋しさを消える瞬間にちらちらと動かした。
「まあ好いからそこへ坐って下さい」
彼女は自分の云う通りに蒲団の上に坐った。そうして白い指を火鉢《ひばち》の上に翳《かざ》した。彼女はその姿から想像される通り手爪先《てづまさき》の尋常《じんじょう》な女であった。彼女の持って生れた道具のうちで、初《はじめ》から自分の注意を惹《ひ》いたものは、華奢《きゃしゃ》に出来上ったその手と足とであった。
「二郎さん、あなたも手を出して御あたりなさいな」
自分はなぜか躊躇《ちゅうちょ》して手を出しかねた。その時雨の音が窓の外で蕭々《しょうしょう》とした。昼間|吹募《ふきつの》った西北《にしきた》の風は雨と共にぱったりと落ちたため世間は案外静かになっていた。ただ時を区切《くぎ》って樋《とい》を叩《たた》く雨滴《あまだれ》の音だけがぽたりぽたりと響いた。嫂《あによめ》は平生《いつも》の通り落ちついた態度で、室《へや》の中を見廻しながら「なるほど好い御室ね、そうして静《しずか》だ事」と云った。
「夜だから好く見えるんです。昼間来て御覧なさい、ずいぶん汚ならしい室ですよ」
自分はしばらく嫂と応対していた。けれども今自白すると腹の中は話の調子で示されるほど穏かなものではけっしてなかった。自分は嫂がこの下宿へ訪ねて来《き》ようとはその時までけっして予期していなかったのである。空想にすら描いていなかったのである。彼女の姿を上《あが》り口《ぐち》の土間に見出した時自分ははっと驚いた。そうしてその驚きは喜びの驚きよりもむしろ不安の驚きであった。
「何で来たのだろう。何でこの寒いのにわざわざ来たのだろう。何でわざわざ晩になって灯《ひ》が点《つ》いてから来たのだろう」
これが彼女を見た瞬間の疑惑であった。この疑惑に初手《しょて》からこだわった自分の胸には、火鉢を隔てて彼女と相対している日常の態度の中《うち》に絶えざる圧迫があった。それが自分の談話や調子に不愉快なそらぞらしさを与えた。自分はそれを明かに自覚した。それからその空々《そらぞら》しさがよく相手の頭に映っているという事も自覚した。けれどもどうする訳にも行かなかった。自分は嫂に「冴《さ》え返って寒くなりましたね」と云った。「雨の降るのに好く御出かけですね」と云った。「どうして今頃御出かけです」と聞いた。対話がそこまで行っても自分の胸に少しの光明を投げなかった時、自分は硬《かた》くなった、そうしてジョコンダに似た怪しい微笑の前に立ち竦《すく》まざるを得なかった。
「二郎さんはしばらく会わないうちに、急に改まっちまったのね」と嫂が云い出した。
「そんな事はありません」と自分は答えた。
「いいえそうよ」と彼女が押し返した。
三
自分はつと立って嫂の後《うしろ》へ廻った。彼女は半間《はんげん》の床《とこ》を背にして坐っていた。室が狭いので彼女の帯のあたりはほとんど杉の床柱とすれすれであった。自分がその間へ一足割り込んだ時、彼女は窮屈そうに体躯《からだ》を前の方へ屈《かが》めて「何をなさるの」と聞いた。自分は片足を宙《ちゅう》に浮かしたまま、床の奥から黒塗の重箱を取り出して、それを彼女の前へ置いた。
「一つどうです」
こう云いながら蓋《ふた》を取ろうとすると、彼女は微《かす》かに苦笑を洩《も》らした。重箱の中には白砂糖をふりかけた牡丹餅《ぼたもち》が行儀よく並べてあった。昨日《きのう》が彼岸《ひがん》の中日《ちゅうにち》である事を自分はこの牡丹餅によって始めて知ったのである。自分は嫂《あによめ》の顔を見て真面目に「食べませんか」と尋ねた。彼女はたちまち吹き出した。
「あなたもずいぶんね、その御萩《おはぎ》は昨日《きのう》宅《うち》から持たせて上げたんじゃありませんか」
自分はやむをえず苦笑しながら一つ頬張《ほおば》った。彼女は自分のために湯呑《ゆのみ》へ茶を注《つ》いでくれた。
自分はこの牡丹餅から彼女が今日|墓詣《はかまい》りのため里《さと》へ行ってその帰りがけにここへ寄ったのだと云う事をようやく確めた。
「大変|御無沙汰《ごぶさた》をしていますが、あちらでも別にお変りはありませんか」
「ええありがとう、別に……」
言葉寡《ことばずくな》な彼女はただ簡単にこう答えただけであったが、その後へ、「御無沙汰って云えば、あなた番町へもずいぶん御無沙汰ね」と付け加えて、ことさらに自分の顔を見た。
自分は全く番町へは遠ざかっていた。始めは宅《うち》の事が苦《く》になって一週に一度か二度行かないと気が済まないくらいだったが、いつか中心を離れてよそからそっと眺める癖を養い出した。そうしてその眺めている間少くとも事が起らずに済んだという自覚が、無沙汰を無事の原因のように思わせていた。
「なぜ元のようにちょくちょくいらっしゃらないの」
「少し仕事の方が忙《いそが》しいもんですから」
「そう? 本当に? そうじゃないでしょう」
自分は嫂からこう追窮されるのに堪《た》えなかった。その上自分には彼女の心理が解らなかった。他《ほか》の人はどうあろうとも、嫂だけはこの点において自分を追窮する勇気のないものと今まで固く信じていたからである。自分は思い切って「あなたは大胆過ぎる」と云おうかと思った。けれども疾《とう》に相手から小胆と見縊《みくび》られている自分はついに卑怯《ひきょう》であった。
「本当に忙がしいのです。実はこの間から少し勉強しようと思って、そろそろその準備に取りかかったもんですから、つい近頃はどこへも出る気にならないんです。僕はいつまでこんな事をしてぐずぐずしていたってつまらないから、今のうち少し本でも読んでおいて、もう少ししたら外国へでも行って見たいと思ってるんだから」
この答えの後半は本当に自分の希望であった。自分は何でもいいからただ遠くへ行きたい行きたいと願っていた。
「外国って、洋行?」と嫂が聞いた。
「まあそうです」
「結構ね。御父さんに願って早くやって御頂きなさい。妾《あたし》話して上げましょうか」
自分も無駄と知りながらそんな事を幻《まぼろし》のように考えていたのだが、彼女の言葉を聞いた時急に、「お父さんは駄目ですよ」と首を振って見せた。彼女はしばらく黙っていた。やがて物憂《ものう》そうな調子で「男は気楽なものね」と云った。
「ちっとも気楽じゃありません」
「だって厭《いや》になればどこへでも勝手に飛んで歩けるじゃありませんか」
四
自分はいつか手を出して火鉢《ひばち》へあたっていた。その火鉢は幾分か背を高くかつ分厚《ぶあつ》に拵《こしら》えたものであったけれども、大きさから云うと、普通《なみ》の箱火鉢と同じ事なので二人向い合せに手を翳《かざ》すと、顔と顔との距離があまり近過ぎるくらいの位地にあった。嫂《あによめ》は席に着いた初から寒いといって、猫背《ねこぜ》の人のように、心持胸から上を前の方に屈《こご》めて坐っていた。彼女のこの姿勢のうちには女らしいという以外に何の非難も加えようがなかった。けれどもその結果として自分は勢い後《うしろ》へ反《そ》り返る気味で座を構えなければならなくなった。それですら自分は彼女の富士額《ふじびたい》をこれほど近くかつ長く見つめた事はなかった。自分は彼女の蒼白《あおじろ》い頬の色を※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》のごとく眩《まぶ》しく思った。
自分はこういう比較的窮屈な態度の下《もと》に、彼女から突如として彼女と兄の関係が、自分が宅《うち》を出た後《あと》もただ好くない一方に進んで行くだけであるという厭《いや》な事実を聞かされた。彼女はこれまでこちらから問いかけなければ、けっして兄の事について口を開かない主義を取っていた。たといこちらから問いかけても「相変らずですわ」とか、「何心配するほどの事じゃなくってよ」とか答えてただ微笑するのが常であった。それをまるで逆《さか》さまにして、自分の最も心苦しく思っている問題の真相を、向うから積極的にこちらへ吐きかけたのだから、卑怯《ひきょう》な自分は不意に硫酸を浴《あび》せられたようにひりひりとした。
しかしいったん緒《いとぐち》を見出した時、自分はできるだけ根掘り葉掘り聞こうとした。けれども言葉の浪費を忌《い》む彼女は、そうこちらの思い通りにはさせなかった。彼女の口にするところは重《おも》に彼ら夫婦間に横たわる気不味《きまず》さの閃電《せんでん》に過ぎなかった。そうして気不味さの近因についてはついに一言《ひとこと》も口にしなかった。それを聞くと、彼女はただ「なぜだか分らないのよ」というだけであった。実際彼女にはそれが分らないのかも知れなかった。また分っている癖にわざと話さないのかも知れなかった。
「どうせ妾《あたし》がこんな馬鹿に生れたんだから仕方がないわ。いくらどうしたってなるようになるよりほかに道はないんだから。そう思って諦《あき》らめていればそれまでよ」
彼女は初めから運命なら畏《おそ》れないという
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