えお直《なお》さん」と彼は嫂《あによめ》に話しかけた。この時だけは嫂もさすが変な顔をして黙っていた。自分も何とも云いようがなかった。兄はかえって冷然とすべてに取り合わない気色《けしき》を見せた。岡田はすでに酔って何事にも拘泥《こうでい》せずへらへら口を動かした。
「もっとも一郎さんも善くないと僕は思いますよ。そうあなた、書斎にばかり引っ込んで勉強していたって、つまらないじゃありませんか。もうあなたぐらい学問をすれば、どこへ出たって引けを取るんじゃないんだからね。しかし二郎さん始め、お直さんや叔母さんも好くないようですね。一郎は書斎よりほかは嫌いだ嫌いだって云っときながら、僕が来てこう引っ張り出せば、訳なく二階から下りて来て、僕と面白そうに話してくれるじゃありませんか。そうでしょう一郎さん」
 彼はこう云って兄の方を見た。兄は黙って苦笑《にがわら》いをした。
「ねえ叔母さん」
 母も黙っていた。
「ねえお重さん」
 彼は返事を受けるまで順々に聞いて廻るらしかった。お重はすぐ「岡田さん、あなたいくら年を取っても饒舌《しゃべ》る病気が癒《なお》らないのね。騒々しいわよ」と云った。それで皆《みん》なが笑い出したので、自分はほっと一《ひ》と息《いき》吐《つ》いた。

        三十四

 芳江が「叔父さんちょっといらっしゃい」と次の間から小さな手を出して自分を招いた。「何だい」と立って行くと彼女はどこからか、大きな信玄袋《しんげんぶくろ》を引摺《ひきず》り出して、「これお貞さんのよ、見せたげましょうか」と自慢らしく自分を見た。
 彼女は信玄袋の中から天鵞絨《びろうど》で張った四角な箱を出した。自分はその中にある真珠の指環を手に取って、ふんと云いながら眺めた。芳江は「これもよ」と云って、今度は海老茶色《えびちゃいろ》のを出したが、これは自分が洗濯その他《た》の世話になった礼に買ってやった宝石なしの単純な金の指環であった。彼女はまた「これもよ」と云って、繻珍《しゅちん》の紙入を出した。その紙入には模様風に描いた菊の花が金で一面に織り出されていた。彼女はその次に比較的大きくて細長い桐《きり》の箱を出した。これは金と赤銅《しゃくどう》と銀とで、蔦《つた》の葉を綴《つづ》った金具の付いている帯留《おびどめ》であった。最後に彼女は櫛《くし》と笄《こうがい》を示して、「これ卵甲《らんこう》よ。本当の鼈甲《べっこう》じゃないんだって。本当の鼈甲は高過ぎるからおやめにしたんですって」と説明した。自分には卵甲という言葉が解らなかった。芳江には無論解らなかった。けれども女の子だけあって、「これ一番安いのよ。四方張《しほうばり》よか安いのよ。玉子の白味で貼《は》り付けるんだから」と云った。「玉子の白味でどこをどう貼り付けるんだい」と聞くと、彼女は、「そんな事知らないわ」と取り済ました口の利《き》き方《かた》をして、さっさと信玄袋を引き摺《ず》って次の間へ行ってしまった。
 自分は母からお貞さんの当日着る着物を見せて貰った。薄紫がかった御納戸《おなんど》の縮緬《ちりめん》で、紋《もん》は蔦、裾《すそ》の模様は竹であった。
「これじゃあまり閑静《かんせい》過ぎやしませんか、年に合わして」と自分は母に聞いて見た。母は「でもねあんまり高くなるから」と答えた。そうして「これでも御前二十五円かかったんだよ」とつけ加えて、無知識な自分を驚かした。地《じ》は去年の春京都の織屋が背負《しょ》って来た時、白のまま三反ばかり用意に買っておいて、この間まで箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》にしまったなり放《ほう》ってあったのだそうである。
 お貞さんは一座の席へ先刻《さっき》から少しも顔を出さなかった。自分はおおかたきまりが悪いのだろうと想像して、そのきまりの悪いところを、ここで一目見たいと思った。
「お貞さんはどこにいるんです」と母に聞いた。すると兄が「ああ忘れた。行く前にちょっとお貞さんに話があるんだった」と云った。
 みんな変な顔をしたうちに、嫂《あによめ》の唇《くちびる》には著るしい冷笑の影が閃《ひら》めいた。兄は誰にも取合う気色《けしき》もなく、「ちょっと失敬」と岡田に挨拶《あいさつ》して、二階へ上がった。その足音が消えると間もなく、お貞さんは自分達のいる室《へや》の敷居際《しきいぎわ》まで来て、岡田に叮嚀《ていねい》な挨拶をした。
 彼女は「さあどうぞ」と会釈《えしゃく》する岡田に、「今ちょっと御書斎まで参らなければなりませんから、いずれのちほど」と答えて立ち上がった。彼女の上気したようにほっと赤くなった顔を見た一座のものは、気の毒なためか何だか、強《し》いて引きとめようともしなかった。
 兄の二階へ上がる足音はそれほど強くはなかったが、いつでも上履《スリッパー》を引掛けているため、ぴしゃぴしゃする響が、下からよく聞こえた。お貞さんのは素足の上に、女のつつましやかな気性《きしょう》をあらわすせいか、まるで聴《き》き取れなかった。戸を開けて戸を閉じる音さえ、自分の耳には全く這入《はい》らなかった。
 彼ら二人はそこで約三十分ばかり何か話していた。その間嫂は平生の冷淡さに引き換えて、尋常《なみ》のものより機嫌《きげん》よく話したり笑ったりした。けれどもその裏に不機嫌を蔵《かく》そうとする不自然の努力が強く潜在している事が自分によく解った。岡田は平気でいた。
 自分は彼女が兄と会見を終って、自分達の室《へや》の横を通る時、その足音を聞きつけて、用あり気に不意と廊下へ出た。ばったり出逢《であ》った彼女の顔は依然として恥ずかしそうに赤く染《そま》っていた。彼女は眼を俯《ふ》せて、自分の傍《そば》を擦《す》り抜けた。その時自分は彼女の瞼《まぶた》に涙の宿った痕迹《こんせき》をたしかに認めたような気がした。けれども書斎に入《い》った彼女が兄と差向いでどんな談話をしたか、それはいまだに知る事を得ない。自分だけではない、その委細を知っているものは、彼ら二人より以外に、おそらく天下に一人もあるまいと思う。

        三十五

 自分は親戚の片割《かたわれ》として、お貞さんの結婚式に列席するよう、父母から命ぜられていた。その日はちょうど雨がしょぼしょぼ降って、婚礼には似合しからぬ佗《わ》びしい天気であった。いつもより早く起きて番町へ行って見ると、お貞さんの衣裳《いしょう》が八畳の間に取り散らしてあった。
 便所へ行った帰りに風呂場の口を覗《のぞ》いて見たら、硝子戸《ガラスど》が半分|開《あ》いて、その中にお貞さんのお化粧をしている姿がちらりと見えた。それから「あらそこへ障《さわ》っちゃ厭《いや》ですよ」という彼女の声が聞こえた。芳江は面白半分何か悪戯《いたずら》をすると見えた。自分も芳江の真似《まね》をやろうと思ったが、場合が場合なのでつい遠慮して茶の間へ戻った。
 しばらくしてから、また八畳へ出て見ると、みんながお召換《めしかえ》をやっていた。芳江が「あのお貞さんは手へも白粉《おしろい》を塗《つ》けたのよ」と大勢に吹聴《ふいちょう》していた。実を云うと、お貞さんは顔よりも手足の方が赤黒かったのである。
「大変真白になったな。亭主を欺瞞《だま》すんだから善《よ》くない」と父が調戯《からか》っていた。
「あしたになったら旦那様《だんなさま》がさぞ驚くでしょう」と母が笑った。お貞さんも下を向いて苦笑した。彼女は初めて島田に結った。それが予期できなかった斬新《ざんしん》の感じを自分に与えた。
「この髷《まげ》でそんな重いものを差したらさぞ苦しいでしょうね」と自分が聞くと、母は「いくら重くっても、生涯《しょうがい》に一度はね……」と云って、己《おの》れの黒紋付《くろもんつき》と白襟《しろえり》との合い具合をしきりに気にしていた。お貞さんの帯は嫂《あによめ》が後へ廻って、ぐっと締めてやった。
 兄は例の臭《くさ》い巻煙草《まきたばこ》を吹かしながら広い縁側《えんがわ》をあちらこちらと逍遥《しょうよう》していた。彼はこの結婚に、まるで興味をもたないような、また彼一流の批評を心の中に加えているような、判断のでき悪《にく》い態度をあらわして、時々我々のいる座敷を覗《のぞ》いた。けれどもちょっと敷居際《しきいぎわ》にとまるだけでけっして中へは這入《はい》らなかった。「仕度《したく》はまだか」とも催促しなかった。彼はフロックに絹帽《シルクハット》を被《かぶ》っていた。
 いよいよ出る時に、父は一番綺麗な俥《くるま》を択《よ》って、お貞さんを乗せてやった。十一時に式があるはずのところを少し時間が後《おく》れたため岡田は太神宮の式台へ出て、わざわざ我々を待っていた。皆《みん》ながどやどやと一度に控所に這入ると、そこにはお婿《むこ》さんがただ一人質に取られた置物のように椅子《いす》へ腰をかけていた。やがて立ち上がって、一人一人に挨拶《あいさつ》をするうちに、自分は控所にある洋卓《テーブル》やら、絨氈《じゅうたん》やら、白木《しらき》の格天井《ごうてんじょう》やらを眺めた。突き当りには御簾《みす》が下りていて、中には何か在《あ》るらしい気色《けしき》だけれども、奥の全く暗いため何物をも髣髴《ほうふつ》する事ができなかった。その前には鶴と浪《なみ》を一面に描いためでたい一双の金屏風《きんびょうぶ》が立て廻してあった。
 縁女《えんじょ》と仲人《なこうど》の奥さんが先、それから婿と仲人の夫、その次へ親類がつづくという順を、袴《はかま》羽織《はおり》の男が出て来て教えてくれたが、肝腎《かんじん》の仲人たるべき岡田はお兼さんを連れて来なかったので、「じゃはなはだ御迷惑だけど、一郎さんとお直《なお》さんに引き受けていただきましょうか、この場|限《かぎ》り」と岡田が父に相談した。父は簡単に「好かろうよ」と答えた。嫂《あによめ》は例のごとく「どうでも」と云った。兄も「どうでも」と云ったが、後《あと》から、「しかし僕らのような夫婦が媒妁人《ばいしゃくにん》になっちゃ、少し御両人のために悪いだろう」と付け足した。
「悪いなんて――僕がするより名誉でさあね。ねえ二郎さん」と岡田が例のごとく軽い調子で云った。兄は何やらその理由を述べたいらしい気色《けしき》を見せたが、すぐ考え直したと見えて、「じゃ生れて初めての大役を引き受けて見るかな。しかし何にも知らないんだから」と云うと、「何向うで何もかも教えてくれるから世話はない。お前達は何もしないで済むようにちゃんと拵《こしら》えてあるんだ」と父が説明した。

        三十六

 反橋《そりはし》を渡る所で、先の人が何かに支《つか》えて一同ちょっととまった機会を利用して、自分はそっと岡田のフロックの尻を引張った。
「岡田さんは実に呑気《のんき》だね」と云った。
「なぜです」
 彼は自ら媒妁人《ばいしゃくにん》をもって任じながら、その細君を連れて来ない不注意に少しも気がついていないらしかった。自分から呑気の訳を聞いた時、彼は苦笑して頭を掻《か》きながら、「実は伴《つ》れて来《き》ようと思ったんですがね、まあどうかなるだろうと思って……」と答えた。
 反橋を降りて奥へ這入《はい》ろうという入口の所で、花嫁は一面に張り詰められた鏡の前へ坐《すわ》って、黒塗の盥《たらい》の中で手を洗っていた。自分は後《うしろ》から背延《せいのび》をして、お貞さんの姿を見た時、なるほどこれで列が後《おく》れるんだなと思うと同時に吹き出したくなった。せっかく丹精して塗り立てた彼女の手も、この神聖な一杓《ひとしゃく》の水で、無残《むざん》に元のごとく赤黒くされてしまったのである。
 神殿の左右には別室があった。その右の方へ兄が佐野さんを伴れて這入った。その左の方へ嫂《あによめ》がお貞さんを伴れて這入った。それが左右から出て来て着座するのを見ると、兄夫婦は真面目な顔をして向い合せに坐っていた。花嫁花婿も無論の事、謹《つつし》んだ姿で相対していた。
 式壇を正面に、後《うしろ》の方にずらりと並んだ
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