と烈《はげ》しい神経衰弱なのかも知れないからって云ったが、僕もとうとうそれなり忘れてしまって、今君の顔を見るまで実は思い出せなかったのだ」
「そりゃいつ頃の事だ」と自分はせわしなく聞いた。
「ちょうど君の下宿する前後の事だと思っているが、判然《はっきり》した事は覚えていない」
「今でもそうなのか」
三沢は自分の思い逼《せま》った顔を見て、慰めるように「いやいや」と云った。
「いやいやそれはほんに一時的の事であったらしい。この頃では全然平生と変らなくなったようだと、Hさんが二三日《にさんち》前僕に話したから、もう安心だろう。しかし……」
自分は家《うち》を出た時に自分の胸に刻み込んだ兄との会見を思わず憶《おも》い出した。そうしてその折の自分の疑いが、あるいは学校で証明されたのではなかろうかと考えて、非常に心細くかつ恐ろしく感じた。
三十一
自分は力《つと》めて兄の事を忘れようとした。するとふと大阪の病院で三沢から聞いた精神病の「娘さん」を聯想《れんそう》し始めた。
「あのお嬢さんの法事には間に合ったのかね」と聞いて見た。
「間に合った。間に合ったが、実にあの娘さんの親達は失敬な厭《いや》な奴《やつ》だ」と彼は拳骨《げんこつ》でも振り廻しそうな勢いで云った。自分は驚いてその理由を聞いた。
彼はその日三沢家を代表して、築地の本願寺の境内《けいだい》とかにある菩提所《ぼだいしょ》に参詣《さんけい》した。薄暗い本堂で長い読経《どきょう》があった後、彼も列席者の一人として、一抹《いちまつ》の香を白い位牌《いはい》の前に焚《た》いた。彼の言葉によると、彼ほどの誠をもって、その若く美しい女の霊前に額《ぬか》ずいたものは、彼以外にほとんどあるまいという話であった。
「あいつらはいくら親だって親類だって、ただ静かなお祭りでもしている気になって、平気でいやがる。本当に涙を落したのは他人のおれだけだ」
自分は三沢のこういう憤慨を聞いて、少し滑稽《こっけい》を感じたが、表ではただ「なるほど」と肯《うけ》がった。すると三沢は「いやそれだけなら何も怒りゃしない。しかし癪《しゃく》に障《さわ》ったのはその後《あと》だ」
彼は一般の例に従って、法要の済んだ後《あと》、寺の近くにある或る料理屋へ招待された。その食事中に、彼女の父に当る人や、母に当る女が、彼に対して談《はなし》をするうちに妙に引っ掛って来た。何の悪意もない彼には、最初いっこうその当こすりが通じなかったが、だんだん時間の進むに従って、彼らの本旨《ほんし》がようやく分って来た。
「馬鹿にもほどがあるね。露骨にいえばさ、あの娘さんを不幸にした原因は僕にある。精神病にしたのも僕だ、とこうなるんだね。そうして離別になった先の亭主は、まるで責任のないように思ってるらしいんだから失敬じゃないか」
「どうしてまたそう思うんだろう。そんなはずはないがね。君の誤解じゃないか」と自分が云った。
「誤解?」と彼は大きな声を出した。自分は仕方なしに黙った。彼はしきりにその親達の愚劣な点を述べたててやまなかった。その女の夫となった男の軽薄を罵《のの》しって措《お》かなかった。しまいにこう云った。
「なぜそんなら始めから僕にやろうと云わないんだ。資産や社会的の地位ばかり目当《めあて》にして……」
「いったい君は貰《もら》いたいと申し込んだ事でもあるのか」と自分は途中で遮《さえぎ》った。
「ないさ」と彼は答えた。
「僕がその娘さんに――その娘さんの大きな潤《うるお》った眼が、僕の胸を絶えず往来《ゆきき》するようになったのは、すでに精神病に罹《かか》ってからの事だもの。僕に早く帰って来てくれと頼み始めてからだもの」
彼はこう云って、依然としてその女の美しい大《おおき》な眸《ひとみ》を眼の前に描くように見えた。もしその女が今でも生きていたならどんな困難を冒《おか》しても、愚劣な親達の手から、もしくは軽薄な夫の手から、永久に彼女を奪い取って、己《おの》れの懐《ふところ》で暖めて見せるという強い決心が、同時に彼の固く結んだ口の辺《あたり》に現れた。
自分の想像は、この時その美しい眼の女よりも、かえって自分の忘れようとしていた兄の上に逆戻りをした。そうしてその女の精神に祟《たた》った恐ろしい狂いが耳に響けば響くほど、兄の頭が気にかかって来た。兄は和歌山行の汽車の中で、その女はたしかに三沢を思っているに違ないと断言した。精神病で心の憚《はばかり》が解けたからだとその理由までも説明した。兄はことによると、嫂《あによめ》をそういう精神病に罹《かか》らして見たい、本音を吐かせて見たい、と思ってるかも知れない。そう思っている兄の方が、傍《はた》から見ると、もうそろそろ神経衰弱の結果、多少精神に狂いを生じかけて、自分の方から恐ろしい言葉を家中に響かせて狂い廻らないとも限らない。
自分は三沢の顔などを見ている暇をもたなかった。
三十二
自分はかねて母から頼まれて、この次もし三沢の所へ行ったら、彼にお重を貰う気があるか、ないか、それとなく彼の様子を探って来るという約束をした。しかしその晩はどうしてもそういう元気が出なかった。自分の心持を了解しない彼は、かえって自分に結婚を勧めてやまなかった。自分の頭はまたそれに対して気乗《きのり》のした返事をするほど、穏かに澄んでいなかった。彼は折を見て、ある候補者を自分に紹介すると云った。自分は生返事をして彼の家を出た。外は十文字に風が吹いていた。仰ぐ空には星が粉《こ》のごとくささやかな力を集めて、この風に抵抗しつつ輝いた。自分は佗《わび》しい胸の上に両手を当てて下宿へ帰った。そうして冷たい蒲団《ふとん》の中にすぐ潜《もぐ》り込んだ。
それから二三日《にさんち》しても兄の事がまだ気にかかったなり、頭がどうしても自分と調和してくれなかった。自分はとうとう番町へ出かけて行った。直接兄に会うのが厭《いや》なので、二階へはとうとう上《あが》らなかったが、母を始め他《ほか》の者には無沙汰見舞《ぶさたみまい》の格で、何気なく例の通りの世間話をした。兄を交えない一家の団欒《だんらん》はかえって寛《くつろ》いだ暖かい感じを自分に与えた。
自分は帰り際《ぎわ》に、母をちょっと次の間へ呼んで、兄の近況を聞いて見た。母はこの頃兄の神経がだいぶ落ちついたと云って喜んでいた。自分は母の一言《いちごん》でやっと安心したようなものの、母には気のつかない特殊の点に、何だか変調がありそうで、かえってそれが気がかりになった。さればと云って、兄に会って自分から彼を試験しようという勇気は無論起し得なかった。三沢から聞いた兄の講義が一時変になった話も母には告げ得なかった。
自分は何も云う事のないのに、ぼんやり暗い部屋の襖《ふすま》の蔭《かげ》に寒そうに立っていた。母も自分に対してそこを動かなかった。その上彼女の方から自分に何かいう必要を認めるように見えた。
「もっともこの間少し風邪《かぜ》を引いた時、妙な囈語《うわごと》を云ったがね」と云った。
「どんな事を云いました」と自分は聞いた。
母はそれには答えないで、「なに熱のせいだから、心配する事はないんだよ」と自分の問を打ち消した。
「熱がそんなに有ったんですか」と自分はさらに別の事を尋ねた。
「それがね、熱は三十八度か八度五分ぐらいなんだから、そんなはずはないと思って、お医者に聞いて見ると、神経衰弱のものは少しの熱でも頭が変になるんだってね」
医学の初歩さえ心得ない自分は始めてこの知識に接して、思わず眉《まゆ》をひそめた。けれども室《へや》が暗いので、母には自分の顔が見えなかった。
「でも氷で頭を冷したら、そのお蔭で熱がすぐ引いたんで安心したけれど……」
自分は熱の引かない時の兄が、どんな囈語を云ったか、それがまだ知りたいので、薄ら寒い襖の蔭に依然として立っていた。
次の間《ま》は電灯で明るく照されていた。父が芳江に何か云って調戯《からか》うたびに、みんなの笑う声が陽気に聞こえた。すると突然その笑い声の間から、「おい二郎」と父が自分を呼んだ。
「おい二郎、また御母さんに小遣《こづかい》でも強請《せび》ってるんだろう。お綱、お前みたように、そうむやみに二郎の口車に乗っちゃいけないよ」と大きな声で云った。
「いいえそんな事じゃありません」と自分も大きな声で負けずに答えた。
「じゃ何だい、そんな暗い所で、こそこそ御母さんを取《と》っ捉《つら》まえて話しているのは。おい早く光《あか》るい所へ面《つら》を出せ」
父がこう云った時、明るい室《へや》の方に集まったものは一度にどっと笑った。自分は母から聞きたい事も聞かずに、父の命令通り、はいと云って、皆《みん》なの前へ姿をあらわした。
三十三
それからしばらくの間は、B先生の顔を見ても、三沢の所へ遊びに行っても、兄の話はいっこう話題に上《のぼ》らなかった。自分は少し安心した。そうしてなるべく家《うち》の事を忘れようと試みた。しかし下宿の徒然《とぜん》に打ち勝たれるのが何より苦しいので、よく三沢の時間を潰《つぶ》しにこっちから押し寄せたり、また引っ張り出したりした。
三沢は厭《あ》きずにいつまでも例の精神病の娘さんの話をした。自分はこの異様なおのろけを聞くたびに、きっと兄と嫂《あによめ》の事を連想して自《おのず》から不快になった。それで、時々またかという様子を色にも言葉にも表わした。三沢も負けてはいなかった。
「君も君のおのろけを云えば、それで差引損得なしじゃないか」などと自分を冷かした。自分はもうちっとで彼と往来で喧嘩《けんか》をするところであった。
彼にはこういう風に、精神病の娘さんが、影身《かげみ》に添って離れないので、自分はかねて母から頼まれたお重の事を彼に話す余地がなかった。お重の顔は誰が見ても、まあ十人並以上だろうと、仲の善《よ》くない自分にも思えたが、惜《おし》い事に、この大切な娘さんとは、まるで顔の型が違っていた。
自分の遠慮に引き換えて、彼は平気で自分に嫁の候補者を推挙した。「今度《こんだ》どこかでちょっと見て見ないか」と勧めた事もあった。自分は始めこそ生《なま》返事ばかりしていたが、しまいは本気にその女に会おうと思い出した。すると三沢は、まだ機会が来ないから、もう少し、もう少し、と会見の日を順繰《じゅんぐり》に先へ送って行くので、自分はまた気を腐らした末、ついにその女の幻《まぼろし》を離れてしまった。
反対に、お貞さんの方の結婚はいよいよ事実となって現《あらわ》るべく、目前に近《ちかづ》いて来た。お貞さんは相応の年をしている癖に、宅中《うちじゅう》で一番|初心《うぶ》な女であった。これという特色はないが、何を云っても、じき顔を赤くするところに変な愛嬌《あいきょう》があった。
自分は三沢と夜更《よふけ》に寒い町を帰って来て、下宿の冷たい夜具に潜《もぐ》り込みながら、時々お貞さんの事を思い出した。そうして彼女もこんな冷たい夜具を引き担《かつ》ぎながら、今頃は近い未来に逼《せま》る暖かい夢を見て、誰も気のつかない笑い顔を、半《なか》ば天鵞絨《びろうど》の襟《えり》の裡《なか》に埋《うず》めているだろうなどと想像した。
彼女の結婚する二三日前に、岡田と佐野は、氷を裂くような汽車の中から身を顫《ふる》わして新橋の停車場《ステーション》に下りた。彼は迎えに出た自分の顔を見て、いようという掛声《かけごえ》をした。それから「相変らず二郎さんは呑気《のんき》だね」と云った。岡田は己《おの》れの呑気さ加減を自覚しない男のようにも思われた。
翌日番町へ行ったら、岡田一人のために宅中《うちじゅう》騒々しく賑《にぎわ》っていた。兄もほかの事と違うという意味か、別に苦《にが》い顔もせずに、その渦中《かちゅう》に捲込《まきこ》まれて黙っていた。
「二郎さん、今になって下宿するなんて、そんな馬鹿がありますか、家《うち》が淋《さび》しくなるだけじゃありませんか。ね
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