て、御母さんには解らないよ、お前のいう事は。気の毒なら、手ぶらで見舞に行くだけの事じゃないか。もし手ぶらできまりが悪ければ、菓子折の一つも持って行きゃあたくさんだね」
 自分はしばらく黙っていた。
「よし三沢さんにそれだけの義理があったにしたところでさ。何もお前が岡田なんぞからそれを借りて上げるだけの義理はなかろうじゃないか」
「じゃよござんす」と自分は答えた。そうして立って下へ行こうとした。兄は湯に入っていた。嫂《あによめ》は小さい下の座敷を借りて髪を結わしていた。座敷には母よりほかにいなかった。
「まあお待ちよ」と母が呼び留めた。「何も出して上げないと云ってやしないじゃないか」
 母の言葉には兄一人でさえたくさんなところへ、何の必要があって、自分までこの年寄を苛《いじ》めるかと云わぬばかりの心細さが籠《こも》っていた。自分は母のいう通り元の席に着いたが、気の毒でちょっと顔を上げ得なかった。そうしてこの無恰好《ぶかっこう》な態度で、さも子供らしく母から要《い》るだけの金子《きんす》を受取った。母が一段声を落して、いつものように、「兄さんにはないしょだよ」と云った時、自分は不意に名状しがたい不愉快に襲われた。

        八

 自分達はその翌日の朝和歌山へ向けて立つはずになっていた。どうせいったんはここへ引返して来なければならないのだから、岡田の金もその時で好いとは思ったが、性急《せっかち》の自分には紙入をそのまま懐中しているからがすでに厭《いや》だった。岡田はその晩も例の通り宿屋へ話に来るだろうと想像された。だからその折にそっと返しておこうと自分は腹の中《うち》できめた。
 兄が湯から上って来た。帯も締《し》めずに、浴衣《ゆかた》を羽織るようにひっかけたままずっと欄干《らんかん》の所まで行ってそこへ濡手拭《ぬれてぬぐい》を懸けた。
「お待遠」
「お母さん、どうです」と自分は母を促《うな》がした。
「まあお這入《はい》りよ、お前から」と云った母は、兄の首や胸の所を眺《なが》めて、「大変好い血色におなりだね。それに少し肉が付いたようじゃないか」と賞《ほ》めていた。兄は性来《しょうらい》の痩《やせ》っぽちであった。宅《うち》ではそれをみんな神経のせいにして、もう少し肥《ふと》らなくっちゃ駄目《だめ》だと云い合っていた。その内でも母は最も気を揉《も》んだ。当人自身も痩せているのを何かの刑罰のように忌《い》み恐れた。それでもちっとも肥れなかった。
 自分は母の言葉を聞きながら、この苦しい愛嬌《あいきょう》を、慰藉《いしゃ》の一つとしてわが子の前に捧げなければならない彼女の心事を気の毒に思った。兄に比べると遥《はる》かに頑丈《がんじょう》な体躯《からだ》を起しながら、「じゃ御先へ」と母に挨拶《あいさつ》して下へ降りた。風呂場の隣の小さい座敷をちょいと覗《のぞ》くと、嫂は今|髷《まげ》ができたところで、合せ鏡をして鬢《びん》だの髱《たぼ》だのを撫《な》でていた。
「もう済んだんですか」
「ええ。どこへいらっしゃるの」
「御湯へ這入ろうと思って。お先へ失礼してもよござんすか」
「さあどうぞ」
 自分は湯に入《い》りながら、嫂が今日に限ってなんでまた丸髷《まるまげ》なんて仰山《ぎょうさん》な頭に結《ゆ》うのだろうと思った。大きな声を出して、「姉さん、姉さん」と湯壺《ゆつぼ》の中から呼んで見た。「なによ」という返事が廊下の出口で聞こえた。
「御苦労さま、この暑いのに」と自分が云った。
「なぜ」
「なぜって、兄さんの御好《おこの》みなんですか、そのでこでこ頭は」
「知らないわ」
 嫂《あによめ》の廊下伝いに梯子段《はしごだん》を上《のぼ》る草履《ぞうり》の音がはっきり聞こえた。
 廊下の前は中庭で八つ手の株が見えた。自分はその暗い庭を前に眺《なが》めて、番頭に背中を流して貰《もら》っていた。すると入口の方から縁側《えんがわ》を沿って、また活溌《かっぱつ》な足音が聞こえた。
 そうして詰襟《つめえり》の白い洋服を着た岡田が自分の前を通った。自分は思わず、「おい君、君」と呼んだ。
「や、今お湯、暗いんでちっとも気がつかなかった」と岡田は一足《ひとあし》後戻りして風呂を覗《のぞ》き込みながら挨拶《あいさつ》をした。
「あなたに話がある」と自分は突然云った。
「話が? 何です」
「まあ、お入《はい》んなさい」
 岡田は冗談《じょうだん》じゃないと云う顔をした。
「お兼は来ませんか」
 自分が「いいえ」と答えると、今度は「皆さんは」と聞いた。自分がまた「みんないますよ」というと、不思議そうに「じゃ今日はどこへも行かなかったんですか」と聞いた。
「行ってもう帰って来たんです」
「実は僕も今会社から帰りがけですがね。どうも暑いじゃあありませんか。――とにかくちょっと伺候《しこう》して来ますから。失礼」
 岡田はこう云い捨てたなり、とうとう自分の用事を聞かずに二階へ上《あが》って行ってしまった。自分もしばらくして風呂から出た。

        九

 岡田はその夜《よ》だいぶ酒を呑んだ。彼は是非都合して和歌の浦までいっしょに行くつもりでいたが、あいにく同僚が病気で欠勤しているので、予期の通りにならないのがはなはだ残念だと云ってしきりに母や兄に詫《わ》びていた。
「じゃ今夜が御別れだから、少し御過《おす》ごしなさい」と母が勧めた。
 あいにく自分の家族は酒に親しみの薄いものばかりで、誰も彼の相手にはなれなかった。それで皆《みん》な御免蒙《ごめんこうむ》って岡田より先へ食事を済ました。岡田はそれがこっちも勝手だといった風に、独《ひと》り膳《ぜん》を控えて盃《さかずき》を甜《な》め続けた。
 彼は性来《しょうらい》元気な男であった。その上酒を呑むとますます陽気になる好い癖を持っていた。そうして相手が聞こうが聞くまいが、頓着《とんじゃく》なしに好きな事を喋舌《しゃべ》って、時々一人高笑いをした。
 彼は大阪の富が過去二十年間にどのくらい殖《ふ》えて、これから十年立つとまたその富が今の何十倍になるというような統計を挙《あ》げておおいに満足らしく見えた。
「大阪の富より君自身の富はどうだい」と兄が皮肉を云ったとき、岡田は禿《は》げかかった頭へ手を載《の》せて笑い出した。
「しかし僕の今日《こんにち》あるも――というと、偉過《えらす》ぎるが、まあどうかこうかやって行けるのも、全く叔父《おじ》さんと叔母さんのお蔭《かげ》です。僕はいくらこうして酒を呑《の》んで太平楽《たいへいらく》を並べていたって、それだけはけっして忘れやしません」
 岡田はこんな事を云って、傍《そば》にいる母と遠くにいる父に感謝の意を表した。彼は酔うと同じ言葉を何遍も繰返す癖のある男だったが、ことにこの感謝の意は少しずつ違った形式で、幾度《いくたび》か彼の口から洩《も》れた。しまいに彼は灘万《なだまん》のまな鰹《がつお》とか何とかいうものを、是非父に喰わせたいと云い募《つの》った。
 自分は彼がもと書生であった頃、ある正月の宵《よい》どこかで振舞酒《ふるまいざけ》を浴びて帰って来て、父の前へ長さ三寸ばかりの赤い蟹《かに》の足を置きながら平伏して、謹《つつし》んで北海の珍味を献上しますと云ったら、父は「何だそんな朱塗《しゅぬ》りの文鎮《ぶんちん》見たいなもの。要《い》らないから早くそっちへ持って行け」と怒った昔を思い出した。
 岡田はいつまでも飲んで帰らなかった。始めは興《きょう》を添えた彼の座談もだんだん皆《みん》なに飽きられて来た。嫂《あによめ》は団扇《うちわ》を顔へ当てて欠《あくび》を隠した。自分はとうとう彼を外へ連出さなければならなかった。自分は散歩にかこつけて五六町彼といっしょに歩いた。そうして懐《ふところ》から例の金を出して彼に返した。金を受取った時の彼は、酔っているにもかかわらず驚ろくべくたしかなものであった。「今でなくってもいいのに。しかしお兼が喜びますよ。ありがとう」と云って、洋服の内隠袋《うちがくし》へ収めた。
 通りは静であった。自分はわれ知らず空を仰いだ。空には星の光が存外《ぞんがい》濁っていた。自分は心の内に明日《あす》の天気を気遣《きづか》った。すると岡田が藪《やぶ》から棒に「一郎さんは実際むずかしやでしたね」と云い出した。そうして昔《むか》し兄と自分と将棋《しょうぎ》を指した時、自分が何か一口《ひとくち》云ったのを癪《しゃく》に、いきなり将棋の駒を自分の額へぶつけた騒ぎを、新しく自分の記憶から呼び覚《さま》した。
「あの時分からわがままだったからね、どうも。しかしこの頃はだいぶ機嫌《きげん》が好いようじゃありませんか」と彼がまた云った。自分は煮え切らない生《なま》返事をしておいた。
「もっとも奥さんができてから、もうよっぽどになりますからね。しかし奥さんの方でもずいぶん気骨《きぼね》が折れるでしょう。あれじゃ」
 自分はそれでも何の答もしなかった。ある四角《よつかど》へ来て彼と別れるときただ「お兼さんによろしく」と云ったまままた元の路へ引き返した。

        十

 翌日《よくじつ》朝の汽車で立った自分達は狭い列車のなかの食堂で昼飯《ひるめし》を食った。「給仕がみんな女だから面白い。しかもなかなか別嬪《べっぴん》がいますぜ、白いエプロンを掛けてね。是非中で昼飯をやって御覧なさい」と岡田が自分に注意したから、自分は皿を運んだりサイダーを注《つ》いだりする女をよく心づけて見た。しかし別にこれというほどの器量をもったものもいなかった。
 母と嫂《あによめ》は物珍らしそうに窓の外を眺《なが》めて、田舎《いなか》めいた景色を賞し合った。実際|窓外《そうがい》の眺めは大阪を今離れたばかりの自分達には一つの変化であった。ことに汽車が海岸近くを走るときは、松の緑と海の藍《あい》とで、煙に疲れた眼に爽《さわや》かな青色を射返《いかえ》した。木蔭《こかげ》から出たり隠れたりする屋根瓦の積み方も東京地方のものには珍らしかった。
「あれは妙だね。御寺かと思うと、そうでもないし。二郎、やっぱり百姓家なのかね」と母がわざわざ指をさして、比較的大きな屋根を自分に示した。
 自分は汽車の中で兄と隣り合せに坐った。兄は何か考え込んでいた。自分は心の内でまた例のが始まったのじゃないかと思った。少し話でもして機嫌《きげん》を直そうか、それとも黙って知らん顔をしていようかと躊躇《ちゅうちょ》した。兄は何か癪《しゃく》に障《さわ》った時でも、むずかしい高尚な問題を考えている時でも同じくこんな様子をするから、自分にはいっこう見分がつかなかった。
 自分はしまいにとうとう思い切ってこっちから何か話を切り出そうとした。と云うのは、向側《むこうがわ》に腰をかけている母が、嫂と応対の相間《あいま》相間に、兄の顔を偸《ぬす》むように一二度見たからである。
「兄さん、面白い話がありますがね」と自分は兄の方を見た。
「何だ」と兄が云った。兄の調子は自分の予期した通り無愛想《ぶあいそう》であった。しかしそれは覚悟の前であった。
「ついこの間三沢から聞いたばかりの話ですがね。……」
 自分は例の精神病の娘さんがいったん嫁《とつ》いだあと不縁になって、三沢の宅《うち》へ引き取られた時、三沢の出る後《あと》を慕《した》って、早く帰って来てちょうだいと、いつでも云い習わした話をしようと思ってちょっとそこで句を切った。すると兄は急に気乗りのしたような顔をして、「その話ならおれも聞いて知っている。三沢がその女の死んだとき、冷たい額へ接吻《せっぷん》したという話だろう」と云った。
 自分は喫驚《びっくり》した。
「そんな事があるんですか。三沢は接吻の事については一口も云いませんでしたがね。皆《みん》ないる前でですか、三沢が接吻したって云うのは」
「それは知らない。皆《みんな》の前でやったのか。またはほかに人のいない時にやったのか」
「だって三沢がたった一人でその娘さんの死骸《しがい》の傍《そば》にいるはずがないと思いま
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