すがね。もし誰もそばにいない時|接吻《せっぷん》したとすると」
「だから知らんと断ってるじゃないか」
 自分は黙って考え込んだ。
「いったい兄さんはどうして、そんな話を知ってるんです」
「Hから聞いた」
 Hとは兄の同僚で、三沢を教えた男であった。そのHは三沢の保証人だったから、少しは関係の深い間柄《あいだがら》なんだろうけれども、どうしてこんな際《きわ》どい話を聞き込んで、兄に伝えたものだろうか、それは彼も知らなかった。
「兄さんはなぜまた今日までその話を為《し》ずに黙っていたんです」と自分は最後に兄に聞いた。兄は苦《にが》い顔をして、「する必要がないからさ」と答えた。自分は様子によったらもっと肉薄して見ようかと思っているうちに汽車が着いた。

        十一

 停車場《ステーション》を出るとすぐそこに電車が待っていた。兄と自分は手提鞄《てさげかばん》を持ったまま婦人を扶《たす》けて急いでそれに乗り込んだ。
 電車は自分達四人が一度に這入《はい》っただけで、なかなか動き出さなかった。
「閑静な電車ですね」と自分が侮《あな》どるように云った。
「これなら妾達《わたしたち》の荷物を乗っけてもよさそうだね」と母は停車場の方を顧《かえり》みた。
 ところへ書物を持った書生体《しょせいてい》の男だの、扇を使う商人風の男だのが二三人前後して車台に上《のぼ》ってばらばらに腰をかけ始めたので、運転手はついに把手《ハンドル》を動かし出した。
 自分達は何だか市の外廓《がいかく》らしい淋《さむ》しい土塀《どべい》つづきの狭い町を曲って、二三度停留所を通り越した後《のち》、高い石垣の下にある濠《ほり》を見た。濠の中には蓮《はす》が一面に青い葉を浮べていた。その青い葉の中に、点々と咲く紅《くれない》の花が、落ちつかない自分達の眼をちらちらさせた。
「へえーこれが昔のお城かね」と母は感心していた。母の叔母というのが、昔し紀州家の奥に勤めていたとか云うので、母は一層感慨の念が深かったのだろう。自分も子供の時、折々耳にした紀州様、紀州様という封建時代の言葉をふと思い出した。
 和歌山市を通り越して少し田舎道《いなかみち》を走ると、電車はじき和歌の浦へ着いた。抜目《ぬけめ》のない岡田はかねてから注意して土地で一流の宿屋へ室《へや》の注文をしたのだが、あいにく避暑の客が込み合って、眺《なが》めの好い座敷が塞《ふさ》がっているとかで、自分達は直《ただち》に俥《くるま》を命じて浜手の角を曲った。そうして海を真前《まんまえ》に控えた高い三階の上層の一室に入った。
 そこは南と西の開《あ》いた広い座敷だったが、普請《ふしん》は気の利《き》いた東京の下宿屋ぐらいなもので、品位からいうと大阪の旅館とはてんで比べ物にならなかった。時々|大一座《おおいちざ》でもあった時に使う二階はぶっ通しの大広間で、伽藍堂《がらんどう》のような真中《まんなか》に立って、波を打った安畳を眺《なが》めると、何となく殺風景な感が起った。
 兄はその大広間に仮の仕切として立ててあった六枚折の屏風《びょうぶ》を黙って見ていた。彼はこういうものに対して、父の薫陶《くんとう》から来た一種の鑑賞力をもっていた。その屏風には妙にべろべろした葉の竹が巧《たくみ》に描《えが》かれていた。兄は突然|後《うしろ》を向いて「おい二郎」と云った。
 その時兄と自分は下の風呂に行くつもりで二人ながら手拭《てぬぐい》をさげていた。そうして自分は彼の二間ばかり後《うしろ》に立って、屏風の竹を眺める彼をまた眺めていた。自分は兄がこの屏風の画《え》について、何かまた批評を加えるに違いないと思った。
「何です」と答えた。
「先刻《さっき》汽車の中で話しが出た、あの三沢の事だね。お前はどう思う」
 兄の質問は実際自分に取って意外であった。彼はなぜその話しを今まで自分に聞かせなかったと汽車の中で問われた時、すでに苦《にが》い顔をして必要がないからだと答えたばかりであった。
「例の接吻《キッス》の話ですか」と自分は聞き返した。
「いえ接吻じゃない。その女が三沢の出る後《あと》を慕って、早く帰って来てちょうだいと必ず云ったという方の話さ」
「僕には両方共面白いが、接吻の方が何だかより多く純粋でかつ美しい気がしますね」
 この時自分達は二階の梯子段《はしごだん》を半分ほど降りていた。兄はその中途でぴたりと留《とま》った。
「そりゃ詩的に云うのだろう。詩を見る眼で云ったら、両方共等しく面白いだろう。けれどもおれの云うのはそうじゃない。もっと実際問題にしての話だ」

        十二

 自分には兄の意味がよく解らなかった。黙って梯子段の下まで降りた。兄も仕方なしに自分の後《あと》に跟《つ》いて来た。風呂場の入口で立ち留った自分は、ふり返って兄に聞いた。
「実際問題と云うと、どういう事になるんですか。ちょっと僕には解らないんですが」
 兄は焦急《じれっ》たそうに説明した。
「つまりその女がさ、三沢の想像する通り本当にあの男を思っていたか、または先の夫に対して云いたかった事を、我慢して云わずにいたので、精神病の結果ふらふらと口にし始めたのか、どっちだと思うと云うんだ」
 自分もこの問題は始めその話を聞いた時、少し考えて見た。けれどもどっちがどうだかとうてい分るべきはずの者でないと諦《あきら》めて、それなり放ってしまった。それで自分は兄の質問に対してこれというほどの意見も持っていなかった。
「僕には解らんです」
「そうか」
 兄はこう云いながら、やっぱり風呂に這入《はい》ろうともせず、そのまま立っていた。自分も仕方なしに裸になるのを控えていた。風呂は思ったより小さくかつ多少古びていた。自分はまず薄暗い風呂を覗《のぞ》き込んで、また兄に向った。
「兄さんには何か意見が有るんですか」
「おれはどうしてもその女が三沢に気があったのだとしか思われんがね」
「なぜですか」
「なぜでもおれはそう解釈するんだ」
 二人はその話の結末をつけずに湯に入った。湯から上って婦人|連《れん》と入代った時、室《へや》には西日がいっぱい射《さ》して、海の上は溶けた鉄のように熱く輝いた。二人は日を避けて次の室に這入った。そうしてそこで相対して坐った時、先刻《さっき》の問題がまた兄の口から話頭に上《のぼ》った。
「おれはどうしてもこう思うんだがね……」
「ええ」と自分はただおとなしく聞いていた。
「人間は普通の場合には世間の手前とか義理とかで、いくら云いたくっても云えない事がたくさんあるだろう」
「それはたくさんあります」
「けれどもそれが精神病になると――云うとすべての精神病を含めて云うようで、医者から笑われるかも知れないが、――しかし精神病になったら、大変気が楽《らく》になるだろうじゃないか」
「そう云う種類の患者もあるでしょう」
「ところでさ、もしその女がはたしてそういう種類の精神病患者だとすると、すべて世間並《せけんなみ》の責任はその女の頭の中から消えて無くなってしまうに違なかろう。消えて無くなれば、胸に浮かんだ事なら何でも構わず露骨に云えるだろう。そうすると、その女の三沢に云った言葉は、普通我々が口にする好い加減な挨拶《あいさつ》よりも遥《はるか》に誠の籠《こも》った純粋のものじゃなかろうか」
 自分は兄の解釈にひどく感服してしまった。「それは面白い」と思わず手を拍《う》った。すると兄は案外|不機嫌《ふきげん》な顔をした。
「面白いとか面白くないとか云う浮いた話じゃない。二郎、実際今の解釈が正確だと思うか」と問いつめるように聞いた。
「そうですね」
 自分は何となく躊躇《ちゅうちょ》しなければならなかった。
「噫々《ああああ》女も気狂《きちがい》にして見なくっちゃ、本体はとうてい解らないのかな」
 兄はこう云って苦しい溜息《ためいき》を洩《も》らした。

        十三

 宿の下にはかなり大きな掘割《ほりわり》があった。それがどうして海へつづいているかちょっと解らなかったが、夕方には漁船が一二|艘《そう》どこからか漕《こ》ぎ寄せて来て、緩《ゆる》やかに楼の前を通り過ぎた。
 自分達はその掘割に沿うて一二丁右の方へ歩いた後《あと》、また左へ切れて田圃路《たんぼみち》を横切り始めた。向うを見ると、田の果《はて》がだらだら坂の上《のぼ》りになって、それを上り尽した土手の縁《ふち》には、松が左右に長く続いていた。自分達の耳には大きな波の石に砕ける音がどどんどどんと聞えた。三階から見るとその砕けた波が忽然《こつぜん》白い煙となって空《くう》に打上げられる様が、明かに見えた。
 自分達はついにその土手の上へ出た。波は土手のもう一つ先にある厚く築き上げられた石垣に当って、みごとに粉微塵《こみじん》となった末、煮え返るような色を起して空《くう》を吹くのが常であったが、たまには崩《くず》れたなり石垣の上を流れ越えて、ざっと内側へ落ち込んだりする大きいのもあった。
 自分達はしばらくその壮観に見惚《みと》れていたが、やがて強い浪《なみ》の響を耳にしながら歩き出した。その時母と自分は、これが片男波《かたおなみ》だろうと好い加減な想像を話の種に二人並んで歩いた。兄夫婦は自分達より少し先へ行った。二人とも浴衣《ゆかた》がけで、兄は細い洋杖《ステッキ》を突いていた。嫂《あによめ》はまた幅の狭い御殿模様か何かの麻《あさ》の帯を締めていた。彼らは自分達よりほとんど二十間ばかり先へ出ていた。そうして二人とも並んで足を運ばして行った。けれども彼らの間にはかれこれ一間の距離があった。母はそれを気にするような、また気にしないような眼遣《めづかい》で、時々見た。その見方がまた余りに神経的なので、母の心はこの二人について何事かを考えながら歩いているとしか思えなかった。けれども自分は話しの面倒になるのを恐れたから、素知《そし》らぬ顔をしてわざと緩々《ゆるゆる》歩いた。そうしてなるべく呑《の》ん気《き》そうに見せるつもりで母を笑わせるような剽軽《ひょうきん》な事ばかり饒舌《しゃべ》った。母はいつもの通り「二郎、御前見たいに暮して行けたら、世間に苦はあるまいね」と云ったりした。
 しまいに彼女はとうとう堪《こら》え切れなくなったと見えて、「二郎あれを御覧」と云い出した。
「何ですか」と自分は聞き返した。
「あれだから本当に困るよ」と母が云った。その時母の眼は先へ行く二人の後姿をじっと見つめていた。自分は少くとも彼女の困ると云った意味を表向《おもてむき》承認しない訳に行かなかった。
「また何か兄さんの気に障《さわ》る事でもできたんですか」
「そりゃあの人の事だから何とも云えないがね。けれども夫婦となった以上は、お前、いくら旦那《だんな》が素《そ》っ気《け》なくしていたって、こっちは女だもの。直《なお》の方から少しは機嫌《きげん》の直るように仕向けてくれなくっちゃ困るじゃないか。あれを御覧な、あれじゃまるであかの他人が同《おん》なじ方角へ歩いて行くのと違やしないやね。なんぼ一郎だって直に傍へ寄ってくれるなと頼みやしまいし」
 母は無言のまま離れて歩いている夫婦のうちで、ただ嫂《あによめ》の方にばかり罪を着せたがった。これには多少自分にも同感なところもあった。そうしてこの同感は平生から兄夫婦の関係を傍《はた》で見ているものの胸にはきっと起る自然のものであった。
「兄さんはまた何か考え込んでいるんですよ。それで姉さんも遠慮してわざと口を利《き》かずにいるんでしょう」
 自分は母のためにわざとこんな気休《きやす》めを云ってごまかそうとした。

        十四

「たとい何か考えているにしてもだね。直《なお》の方がああ無頓着《むとんじゃく》じゃ片っ方でも口の利きようがないよ。まるでわざわざ離れて歩いているようだもの」
 兄に同情の多い母から見ると、嫂の後姿《うしろすがた》は、いかにも冷淡らしく思われたのだろう。が自分はそれに対して何とも答えなかった。ただ歩きながら嫂の性格をもっと一般的に
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